紀州の薬師その後の話

これは、彼女が豊臣を出る前の、夜更けの話。
半兵衛の護衛を音もなく片付けて、彼の室に忍び込んだ忍が居たというのは、もう彼女と関わっていた誰しもが知ることとなったことである。



予め盛られた薬で、今晩は深く寝入っている半兵衛の枕元に、彼女はそれでも細心の注意を払って無音でそこに降り立った。

「・・・半兵衛様、」

唇をするように形だけで言葉を紡ぎ、ただ瞼を下ろして、眠るその麗人を見つめる。こんなに美しいひとに、笑いかけられていた幸せを彼女はいま一度噛み締めた。

「半兵衛様・・・お慕いしております、」

これだけ、最期だから、許してほしいと、何とは言わず言い訳をして、彼女は彼の手を握り、それに己が額を押し当てた。滲む視界に、涙を零さぬようにと目一杯見開いた。この涙は、毒になり得る。この目の前のひとを、そうして危険に晒す訳にはいかない。

「お慕い、しておりました」

それだけ、囁いて彼女は消えた。
その想いの深さを知る者は、今はもう、居ない。





「三成君、どうかしたかい?」

陣に戻った三成が何か思案するような、いつもとは少し違う様子だったのを吉継も半兵衛も不思議に思っていた。尋ねる半兵衛に対し、彼が視線を泳がせることなど今まであっただろうか。何かいつもと違うこと、彼を動揺させるだけの何か―そんなこと、きっと一つしか無かった。

「知った顔でも、見つけたかい?」
「ッッ!!、」

大きく見開かれた瞳が、嘘をつけない彼に真実を語らせる。三成は、見つけてしまったのだろう、彼女を。そして、何らかの形で、その失踪の真実を知ったのだろう。そうでなければ、裏切りを何よりも嫌う気性の荒い彼がこんなにしおらしくいるなんてあり得ない。

「そう、か」
「半兵衛様ッ、あの者は、「三成君」

三成のその様子だけで、全てを悟った半兵衛は視線を落としてひとつ息を吐いた。それに慌てたように言葉を紡ごうとした三成を、視線で射留めて。

「悪いけれど、案内してくれるかな」

戸惑う三成に有無を言わせずそう言い放つ。こればかりは、譲ることなどできなかった。それが例え、彼女の最期の望みだったとしても。





黙って頷いた三成に連れられて、半兵衛がやって来たのは山奥の小さな小屋だった。辛うじて灯りを向けてみても、その小ささが容易に分かるほどのもの。そこに足を踏み入れて、見覚えのある着物が掛けてあるのを見て唇を噛み締めた。
嗚呼、やはり彼女は、彼女が此処に居たのだと。

「三春君、」

呼んでも、もう二度と返事が返って来ないことなど、とうに理解しているのにも関わらず。
吉継の語ったその身が毒だという忍の話には、続きがあるのをとっくに半兵衛は調べていた。その身を酷使しすぎたその忍は、毒も闇もが身体に回り、痛みの走る身になってしまったが為に前線を退いたのだとか。そして今は薬や毒を扱う忍向けの問屋として生業を立てていると。
元就はきっと、知っていた。忍としての彼女の最後の主である安芸の国主は、それを分かった上で年に一度は顔を見せに来いと、そう彼女に告げていたのだろう。少しでも、それが生き長らえる理由になればと、もしかしたらそんなことを思っていたのかもしれない。

「三春、」

彼女がまだ己の傍に居た頃に、何故、調べようとしなかったのか。半兵衛の手にかかればそんな答えなど、直ぐに見当がついていたはずだった。もっと早くに知っていれば、こんな・・・少なくとも、彼女を看取ることくらいは出来た。病を彼女に感染すこともなく、彼女と共に死ぬことも出来たかもしれない―いや、それは秀吉の為に、そして自らの身を張ってくれた彼女の為に、考えてはならない事かもしれないけれど。けれど、もしかしたらを、止める事は出来ない。
だって、それ以外に、この胸に燻ったままの想いの矛先を向けられない。どうすれば良い、こんなもの、

「三春ッ、」

大切に想ってしまっていた。
彼女を傍に置いておきたくなって、彼女が他に構うのが嫌で、己だけを見ていれば良いと思って、それが、それを、伝える前に、この手からこぼれ落ちるとは、思ってもみなかった。後悔と、未だ捨てきれない愛しさと、彼女に救われてしまったこの生命を抱えて、抱えてしまって、もう、半兵衛にはどうすることも、

「三春・・・ッ、」

だから、今だけはどうか。彼女を喪った悲しみに暮れることを、赦して欲しい。これが終わったら、きっとまた、いつもの自分に戻ろう。彼女がくれた生命を抱えて、これからを大切に生きよう。だから、今だけは。今だけは、どうか。

20180208修正



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -