実家に帰らせていただきます

亭主関白?のつづき









甲斐は武田、虎と呼ばれ戦世にその名を轟かせる男の正室、彼女の名を三春と云う。
京は三条の公家の出である事から三条の方と呼ばれる彼女は、武田の内側、お家に於いては正に中心、甲斐一国の柱が信玄であるのであれば彼女は武田家中の柱であった。彼女が居らねば武田は回らず、はても武田が回らねば甲斐をも回らぬという事になってしまうのだからその存在は全く侮れないのである。

はてさて、何故突然こんな話を始めたのかと申し上げれば、その武田の柱が突如不在となってしまったからに他ならない。





「御正室、三条の方は三春様のお姿が屋敷内の何処にもありませぬ」

早朝より武田三ツ者を束ねる頭領たる秋山十郎兵衛が報告に上がっては、信玄は寝起き早々冷や水をかけられたかのように固まった。

「同じく、弁丸様と付き忍の猿飛佐助の姿も消えております」

どういうことかと、問わなくても答えは既に誰の目から見ても明らかだった。

「家出をされたようで」
「・・・」

何故、そうなる前に止めなかったと信玄が十郎兵衛に問い質さなかったか、それには訳がある。



彼の正室である三春という女は、武門の妻という身の上ではあるが出身は京の公家の姫という貴い身。然しながら何の因果か、いつの頃からかその身に婆娑羅を宿すようになっていたそうだ。幼少よりその強大な力を制御すべく、彼女の父である左大臣の三条氏が彼女を内密に送ったのはどういう訳だか伊賀、忍びの里であった。
幾らなんでも公家のお姫様が…と思う事勿れ。その日の内にこれも御仏に定められたこと、と理解した幼い三春は、里の忍達を忌んだりかと言って恐れたりもせず、学ぶ身なのだからと礼節を持って接しては、酷く忍達を驚かせた(恐れ多いと震える者までいたという)。
そして伸び代が多分にあったのか、吸収も良く忍びの技を扱えるようになった三春は、その婆娑羅をも更に研ぎ澄ませていった。そもそも雷を操る彼女の力、鉄をはじめとする金属類に纏わせて放つというのが殊更相性が良く、忍道具というのは非力な女でも扱うのが容易で、その上身に隠して持ち運べることから護身にも大層役に立つという、実益を兼ね備えたものであったのだった。

そういう訳で気配に敏く、そして素早く不意を突いた攻撃にも動じない、姫の皮を被った化け物にいつの間にやら彼女は到達してしまっていた。
つまりは、彼女が本気で欺こうとすれば並の忍では敵わない。そして昨晩こそ、三ツ者の中でも名を馳せる連中が悉く留守にしていた晩であり、今回の強行に至るには何もかもがお膳立てされた、またとない機会だったのである。



「三条の方様の室にこれが」
「・・・なに?」

黙ったまま頭を抱える信玄に、それはそれは言い辛そうに十郎兵衛がきれいに折り畳まれた文を差し出した。
これは今朝方、三ツ者の同僚である富田郷左衛門が帰城するなり配下の忍から事の次第を聞きつけ、三春の室に駆け付けた際に見つけたものである。その郷左衛門は三ツ者の中でも三春の警護を担当する隊であった為、彼女の覚えも目出度かったのだが、此度の件では相談も何もなく突然強行されたようで、その事実に大いに動揺し崩折れていたという話は今はしないでおこう。

"殿がいつまで経っても奥の者達を困らせるので、強行手段に出ることとしました。幸いにも奥は諏訪が受け持ってくれるとのこと、三春は暫く実家へ戻ります。殿が反省されるまでは帰りません。尚、私が居ないからといって奥の子らに容赦なく手を出すようであれば離縁も厭いませぬので重々ご承知置きくださいませ"

「り、離縁・・・」
「!!!誠にございますかッ?!」

文から顔を上げるなり呆然とそう呟いた信玄の言葉に驚いた十郎兵衛は、失礼、と断りを入れたものの慌てた様子で主君から文を奪い取り目を通した。

「・・・な、まだ大丈夫ではありませぬか…」

ああ驚いた。読んでみると、離縁というのは半ば脅し文句のようなもので彼女は本気でそれを考えている訳ではないと分かる。のだが、信玄はその"離縁"という語句に対して最早使い物にならぬほどの衝撃を受けたようで消沈していた。正室の影響力とは凄まじいものである。

「・・・十郎兵衛、京の三条へ使いを出す」
「御意に」

日ノ本に轟く甲斐の虎は何処いずこ。ここに、凄絶な夫婦喧嘩(一方的)が幕を開けたのである。





「さんじょうのかたさま、どこへまいるのですか?」

此方を見上げる愛い幼な子へ振り向いて、三春は幸せそうに柔らかい笑みを浮かべた。ここ最近は己が夫のおかげで日々気の休まる刻が無く、疲労しきっていた為にこんなにゆったりとした心地になるのは久方ぶりであった。

「取り敢えず越後へ行きますよ」
「・・・三条の方様、京へ参るのではないのですか?」

反対隣から弁丸より大人びた声が届き、それにも振り返れば弁丸の付き忍である佐助が困惑した表情を浮かべていたので、それに悪戯げに笑い返す。

「殿には灸を据えなければなりませんから、直ぐに京へは参りませんよ」

精々探し回れば良いのです、と言えば佐助の口元が引き攣った。三春はそれを見なかったことにしつつ、旅支度をした二人の手を引いて歩く山道に、伊賀にも顔を出したいけれどと物思う。佐助は甲賀の出であるから難しいかもしれない。

「えちご!べんははじめてまいります!」
「面白い知り合いが居るのです。きっと快く受け入れてくれますよ」

楽しそうに笑う弁丸に、ふふふ、と淑やかに微笑む三春に佐助は思う。回りに回ってこの責を追うのは、屹度武田の忍達になるのであろうな、と。お労しや・・・手だけ合わせて、佐助は関与の無いところである。
だって佐助は進言したのだ、一応。そんな家出などと大層なことを仕出かしても良いのですかと。それに三春は良いではないか良いではないかと言わんばかりに、無理矢理旅支度をさせて佐助の手を引く。ならばそれ以上反対できる筈もなく、未だおねむであった弁丸を背負って躑躅ヶ崎館を出たのは夜も明ける前であった。

「三条の方様、その知り合いって、」
「上杉には軒猿が居りますから、そのうち迎えが来るでしょう」
「・・・」

絶句する佐助の苦難と、躑躅ヶ崎館に残る三ツ者の苦難とでは一体どちらが大きいのか、それは越後の軍神がその加護を一身に受けている・・・毘沙門天のみぞ知る、のかもしれない。



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