つちのしょう、うるおいおこる

ざわざわと囁く声に包まれる中、前の審神者が必死に求めて求めて、この本丸を狂わせた天下五剣がその美しい瞳を下ろしている。その傍らには狂って穢れて、荒んで堕ちて行きそうだった一期一振を救った彼女が寄り添い、その瞼の持ち上げられる時を待っていた。
その時があと少しだと分かるのは、この場に流れる清く澄んだ霊力が、三日月宗近の目を覚まさせるのに充分なほどに満ちた事を、霊刀であるこの身にも感じるからだろう。にっかり青江がやって来た頃の、正常とは言えないまでも未だ幾分か良識を維持していた嘗てに比べても、圧倒的に清々しいほど澄み渡っているそれは、はじめて触れるはずなのにどこか温かく、胸の奥を懐かしさのような感情が擽る。
三日月宗近の様子を伺うようにして、この場に集まる刀剣達すべてが、彼女の一挙手一投足に目を光らせている。あるものは、本当に信頼に足る人物が見極める為に。あるものは、その清廉すぎる霊力につい惹かれるようにして。またあるものは、今度はどんな面白い事をやらかしてくれるのかと、止まらない好奇心に胸を高鳴らせて。さて、にっかり青江はそのうちのどれだろうか。どれかに当てはまりそうでいて、その実、そのすべてにも当てはまるかもしれない。それほど、この目の前の彼女は興味深く、魅力的な存在だった。前の審神者に傷付けられ絶望した己らに、期待をさせてしまうほどの。

そんなふうにぼんやりと物思いに耽っていると、彼女の指先がふいに持ち上がった。三日月の顔にかかった髪をすいと除けるようにして、爪の先が額をなぞるように滑る。その優しい刺激に三日月宗近の胸が大きく上下して、その後、ふるりと伏せられたままだった瞼が持ち上がった。

  おはよう、三日月」

その声色の、甘さと言ったら。
彷徨わせた視線がその声の主を捉えて、頬を擦り寄せるように彼女の指先を掬いとる三日月宗近を見て、なんだか落ち着かない気になった。そうして真っ直ぐに信頼を向けて、頭の片隅すら彼女を訝ること無く、その体温を享受できたのなら。はっと浅く短い空気を吸い込んで、息を詰めていたことに気づく。青江のそんな羨望と似たものを他のもの達も思い浮かべたのか、一息の間を置いて、彼女と彼を邪魔するように、わっと辺りの刀剣達が詰め寄った。

「みかづき!だいじょうぶですか?どこかいたいところは?くるしいところはないですか?」
「嗚呼よかった、助けに行けなくてすまなかった、穢れがほんとうに酷くてね…いや、それは言い訳にしかならないか…」
「良かったです…本当に良かった…」
「アンタばかりに辛いもの押し付けちゃったねえ、ホントに出てこられて良かったよ」

わあわあと喧しく騒ぎ立てる彼らに、三日月が戸惑いを浮かべながら、彼女へ助けを求めるように視線を走らせる。彼女の方はその困惑を面白がったように口の端を持ち上げて、それから、三日月の身体をぐっと引き起こした。
起き上がれば見えただろう、部屋の隅から動けない身体でも頭を起こして三日月を思案げに見ている岩融、開け放たれた障子や襖の向こうから中を伺う粟田口の短刀や脇差。安心したように表情を緩める彼らの姿が。

「みんなお前を心配こそすれ、一振りだって恨んではいないよ」

彼女が囁いたその声が微かに聞こえて、とうとう三日月の両の目から涙が溢れた時、青江ははじめて、三日月宗近の抱えていた憂いを理解した。

「わっ!?やっぱりどこかいたいんですか!?」
「どどどどうしたんだい?待ってくれ、いま加持祈祷を…!」
「ふふ…」

彼の泣き笑いは、安堵から漏れたものなのだろう。まさかあの三日月宗近が、自分達に疎まれていると考えていたなどと、一体誰が思おうか。あの審神者の相手を一晩でもした刀であれば、みな等しく三日月を犠牲にした事に罪悪感を抱えているのに。嗚呼けれど、三日月宗近は今まで、審神者の私室に一振り取り残されていて、他の刀剣達と関わることも、視線を交わすことさえ制限されて、たった一振りきりで濃すぎる瘴気に耐えていたのだから  そういうふうに思考が及んでも、仕方のない事なのかもしれない。
どうやらこれからやらなければならない事は沢山ありそうだ、と肩を竦めた青江に、彼女の柔らかな視線が向いて、そっとそれに微笑みを返した。

嗚呼、己も漸く、こうして笑うことができると感じながら。



「ところで主や、一期一振から濃ゆい主の気を感じるのだが?」
「ああ、あれは堕ちかけてて、直接霊気を」
「直接・・・?」

三日月も目が覚め、彼女を呼んだのが三日月であることを彼自身の口から説明されると、彼女に従うと頷いた御神刀の面々は手入れを受けたいと各々立ち上がり、少し離れたところから見ていた粟田口もそれに同意した。
その横でここまでのことを話していた彼女に三日月が口に出したのは、今も縁側で眠ったままの一期一振についてだった。乱と前田が近くについており、彼女の羽織が掛けられた彼はつい先程まで暴れていたとは思えないほど穏やかな顔をして眠っている。血が流るるほどだった腹部の負傷は、そういえば彼女が担ぎ上げた時にはもう見当たらなくなっており、その霊力の凄まじさの片鱗を垣間見る。

「直接とは、穏やかでないなぁ」
「暴走しかけてたんだから、仕方ないだろう?」

自分に負けぬ程濃く彼女の霊力を注がれたものが居るのが気に入らないらしい三日月が不満気に眉根を寄せるが、彼女はそれを笑って流している。三日月も一旦は仕方がないと折れる事にしたようだが、いつの間にやら主と呼んでいる彼女について、三日月宗近の思い入れは並ではないと周知するべきかもしれないな、とその様子を横目に見ながら青江はそんな彼らを前に、やはり胸の真ん中が疼いた。

  最初の手入れは、先程大立ち回りをして損耗の激しい一期一振から始まり、一人では起き上がれないほどだった岩融、腹に穴を開けていたり、片足を引き摺っていたりした鯰尾藤四郎と乱藤四郎に五虎退、そして前田藤四郎、太郎太刀、次郎太刀、石切丸、最後ににっかり青江の順で行わた。他にも手入れを望むもの、そして望まないにしろ状態の酷いものに関しては、折れてしまう前に優先して手入れを行いたい、説得が必要だろう、という話になった。

「それなら先ずは鶴丸殿かな。触れさせてくれると良いけれどねぇ……本体にだよ?」
「伊達の連中は大倶利伽羅が重症になってから特に気が立っているからね……審神者が消えてからは燭台切も出て来なくなってしまった」
「・・・伊達、か」

この場にいる刀剣達で一番最後に手入れを受けたにっかり青江は、彼女のそのあたたかな霊力に触れ恍惚にも似た感覚を身の内で反芻しながら、次の手入れ先の名を上げた。口に出してみたは良いものの、伊達の刀剣達の手入れをするのは厳しいかもしれないとも思う。重症を放置され、意識はおろか動かすことすら危うい大倶利伽羅の処遇を巡って鶴丸国永が抵抗してから、審神者からの暴力を一番受けていたのは彼だったし、そんな彼は等を質にとられて、審神者の身の回りの世話をさせられていた燭台切光忠の怒りは、一期一振のそれに並ぶほどだろうというのが彼の見立てだった。

  燭台切君、入ってもいいかな」
「・・・ダメだと言っても、入るんだろう」
「手入れを受けるだけだと、割り切るのも良いと思うよ。それに、このひとは大丈夫。僕が保証しよう」
「…はぁ。分かった、開けていいよ」

伊達の刀剣の集まっている部屋の瘴気は、一期一振や審神者部屋のそれとまではいかないものの、それでも濃厚で陰りの深いものだった。既に彼女に手入れをされ、清い霊力に満ちて一切の穢れの無くなった青江には、戸口に立つのが限界で、彼女の方を伺い見れば、構わないと頷かれる。部屋の中には、部外者の気配を感じている筈なのに起き上がる様子もない鶴丸国永と大倶利伽羅、己の本体を抱えて壁に凭れながら、こちらを警戒した視線で射抜く燭台切光忠が居た。
彼女はその光景にサッと視線を走らせて状況を認識すると、静かな声色でそばに居た三日月と青江へ指示を出す。

「三日月、湯の張った盥と何か拭くものを沢山持って来てくれるか」
「あい分かった」
「傍へ行ってもいいか?」
「おかしなことをしたら  
「嗚呼。斬って構わない」
「っ、」

そばを離れる際、三日月宗近がすぅと細めた視線で青江を流し見た。それに答えるように頷くと、無言で立ち去る彼の心情は、本当ならば此処を離れたくはないのだろう。それを口に出さないのは、青江が彼女が彼らにとって安全な存在だという事を保証すると言ったから。それを守り、彼女の身に万が一にも何かないようにしなければならない。ピリリとした空気を放つ燭台切を前に、青江はにっかりと笑みを見せた。

彼女はなるべく刺激を与えないように、膝を付いて燭台切に尋ねてから、彼らの方へ傍寄った。一番状態の酷い鶴丸国永の、生気の薄い白い顔を見た後、血で染まり黒ずんでいる着物を捲り、傷の状態を確かめる。肩から腹にかけて大きく入った刀傷の触れるか触れないかのところをなぞるように手のひらを動かすだけで、新たな血の滲みは抑えられたようだった。

「主、手拭いと湯を持ってきた」
「ありがとう」

手早く湯で手拭いを湿らせ、鶴丸国永の身体を拭いていく彼女を眺めながら、その口からなんの気なしに発された言葉に意識を持っていかれる。"ありがとう"なんて、一体いつぶりに耳にしたのだろう。傷だらけで、もうあとは朽ちるだけだと思っていた己らに、周りのものに気を配る余裕なんてなかった。何かをしてもらって礼を言うことも、言われることも、誰かのために何かをすることすら、もうとんとしてこなかった。それに気付かされて、胸が苦しくなる。
自分も、なにか、彼女のために何かしたい。素直な感謝を受け取る三日月宗近が、心の底から羨ましかった。

「き……みは、」
「大丈夫、手入れをするだけだよ。ゆっくり休むと良い、その間、何人たりともお前達に危害を加えさせたりしない」

傷に出来るだけ触れないように、顔回りや指先など、汚れや血を優しく拭われて、心地良さからか死人じみていた鶴丸国永の瞼がそっと持ち上げられた。仄暗い瞳が、それを覗き込む彼女の紅を捉える。そこには思いの外警戒の色はなく、疑念と僅かな安堵と、一番強く、諦観が浮かぶ。その哀しい瞳を見て、彼女が固く握り締められた本体をそっと撫でる。すると鶴丸国永は身体の力を抜いて、己の鞘から手を離した。大倶利伽羅が重症で放置されてから、その身を守るためと片時も離すことのなかったその本体を手放した、彼のその行動に、ずっと警戒していた燭台切が息を呑む。

「うそ、」
「・・・安心したのかもしれないねぇ」

そうして傍に座ったまま手入れ道具を広げて手入れを始める彼女を眺めながら、青江は驚愕の声を漏らした燭台切にそっと声を掛けた。
彼女のその霊力は、腹の底からじわりと温まるような心地の良いもので、手入れを受けた際に塗り替えられてこの身に流るるそれが、どんなに心を満たす事か、教えてあげたいけれどそれは言葉よりもやはりその身で感じねば分からないだろうから。青江には、そのきっかけを与えてやることしか出来ない。

「お前達は皆、己の身を蔑ろにして誰かを守ろうとするんだね」

こちらに背を向けて手を動かしながら、彼女はゆっくと言葉を紡ぐ。誰に向けて語りかけているのだろう、その声には必要以上の哀れみや怒りのようなものは無く、ただ淡々と事実を並べていくような平坦さがあった。

「守りたいものを守る為に、何かを犠牲にするのは簡単な事だ」
「っ、」
「守りたいものを守り切る為には、己の身をも守らなければならない。脅威を前に、己が倒れてしまっては元も子もないだろう」
「そんな言い方・・・ッ」

かちり、と鯉口を切る音がする。
燭台切が苛立ちを露わに彼女の言葉に噛み付くように声を上げた時、彼女は焦ることなく、ゆっくりと手を止めて、彼の方へ顔を上げた。

「お前達の守ったものは、お前達の犠牲を喜ぶだろうか」

力強い視線に、こくりと生唾を呑み込んだのは青江だけでは無い筈だ。その意志の強さに気圧される。責められているとも、窘められているとも違う、確かな問いかけ。言葉に込められた断固とした意志と、次いで訪れる気の抜けたような微笑が、その硬さを解すように落とされた。

「私もそうして怒られたし、泣かれたこともある。出来るなら、己自身も守ってほしいと、私も思うよ」

強さだけではない、その内に確かに存在する優しさが垣間見える話振りに、反抗や反論する気が失せてしまう。嗚呼きっと、これこそが彼女の魅力なのだろうと思わせる、この空気にきっと燭台切はもう呑み込まれている。
言いたい事は言ったと言わんばかりに、刀を向けられそうだった事には何も触れずに、また無防備にも背を向けて手入れを再開した彼女の、その姿を  燭台切光忠は、刀から手を離し、それきり黙って見つめていた。



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -