はるかぜ、こおりをとく

髪を梳くようにして、時折指先が頭皮を掠めていく。その手付きの優しさに、穏やかに瞼を持ち上げると、甘やかな微笑ととろりと溶けるような、あの紅色の瞳が三日月を覗き込んでいた。

「あなや…」
「気分はどうだ?」

あまりの光景にぱちりぱちりと瞬きを繰り返していると、伸ばされた手がひたりと頬に触れる。縁側の軒の向こうに見える久方ぶりの明るい空が眩しく、彼女の顔を見上げながら瞳を細めた。くすくすと軽やかな笑い声が耳を擽り、顔にかかった髪を払う指先が、泣きたくなるほど優しかった。

「こんな、」
「うん?」

小さな声まで優しく撫でるように促されるから、こんなものには慣れていなくてどうしたらいいか分からない。ことりと首を傾ける彼女を前に、胸を締めるのは切ないほどの安堵と心地良さと。

「おれは、こんな扱いを受けて良い存在ではない」

あの本丸の筈なのに、此処はまるで彼処とは別物だった。空は晴れ、庭の花木が咲き乱れ、どこよりも穢れていた筈の離れは清浄な気で満ちている。どうしてこんな所にいるのだろう。沢山の仲間達を苦しめて、傷付け、時には折ってしまった要因とも言える己に、こんな清らかな場所はまるで場違いで、三日月はグッと己の拳を握り締めた。爪の先が食い込む痛みに安堵するのも束の間、何も言わずともそれに気が付いたらしい彼女が、三日月の拳を解いてそっと握った。見上げる表情が、悲しそうに眉を下げる。

「私が此処へ来たのは、きっとお前を助ける為だ。お前が伸ばした手で、私を掴んだんだよ。その苦しみを、私に話してくれないか?」

ぎゅ、とまるで離さないと言わんばかりに握られた手に、瞳が熱くなる。おれは、おれは救われて良いのか?譫言のように零した言葉に、目の前の彼女は眦を殊更甘く和らげた。

「良いよ、私が許す。お前はこれから、目一杯幸せになるべきなんだよ」

溢れるものを拭う指先は、壊れ物を扱うかのように繊細で、三日月の疲れ切って擦り減った心に、その優しさはじんわりと、深く深く染み渡った。



どれほど経ったか、次から次へと零れ落ちる雫はいつの間にやら静かに受け止められて、彼女の羽織に吸い込まれて行ったあと。はたと気が付いてみれば、三日月は幼子のように彼女の腰元に顔を埋めるようにして丸くなっていた。肩に回った腕が柔らかく背を撫で摩り、うとうとと眠気が滲む。硬い板の間の上だったが、陽の光の中で転寝をするなんてまるで初めてのことで、有り余る多幸感に口の端が緩む。
嗚呼、これからこんな事ばかりが続いていくのなら、それはなんて眩暈のしそうな幸福だろう。

そろりと見上げると、見下ろす紅はこんなにも迷惑をかけているのにも関わらず甘やかなまま。

「だいぶ落ち着いたな」

そう言って三日月の髪をさらりと撫でる彼女の指先を感じ、その美しい色をぼんやりと見上げながら、ぽつりぽつりと聞き出される質問に答えていく。

三日月が夢幻に逃避するまで追い詰められた所以、助けなければならない他の仲間達のこと、三日月が閉じ込められていた、この場所がどこかと言うこと。
ところどころ首を傾けて、尋ねられるまま答えて、暫く。少し考え込むようにした彼女は、何か結論付けるようにして、あっけらかんと、おそらく、自分はこの世の者では無いだろうと宣った。

「は、・・・?」

三日月の零した困惑の声に、彼女は苦笑をした。身を起こし、その顔をまじまじと見つめる三日月に、本腰を入れて己について語り出す。
曰く、彼女は戦国の時代を生き抜いてきた将の一人だという。名だたる名将達は"婆娑羅"と呼ばれる人智を超えた力を操り、ある者は己の強さを磨き上げんが為に、ある者は己の持てる力を試す為に、ある者は己の抱えるものを守る為に天下を目指した。そういう激動の時代に、その力を、謀略を、知識を、駆引を駆使して日ノ本をまとめ上げたのだと。そして、

  豊臣秀吉、それが私が名乗っていた名だよ」
「っ、」

その口から次いで転がり出てきた嘗ての主の名に、驚愕を顕に息を呑む。彼女の話は三日月にとっては正に荒唐無稽の、けれどどういう訳か、その語る言葉の中にも、表情にも、視線の中にさえ、嘘は一つも見つけられない。神の末端に名を連ねる付喪を前に、これほどの嘘を並べられるはずもない。然らば、この目の前の彼女の話は、全て真ということになってしまう。豊臣秀吉。この目の前の、彼女が?ほんとうに、あの。

「ひでよし・・・」
「うん。こちらにも、秀吉が居るのかな」
「嗚呼、いた。もう五百・・・いや、六百年は前になるか。俺は豊臣ではすぐに奥方の方へ渡ったが・・・大層大事にされた記憶がある」
「そうか、だから  

お前からは、どこか私の一等大切なものの気配がする。彼女はそう言うと、本当に愛しそうに、ふっと瞳を細めた。嗚呼、この甘い色が、その一等の前だと殊更に色合いを深めるのだと、その様にどことなく既視感を覚えて、思い起こす。色に走るところのあった女好きでお調子者のあの男が、たった一人、真に信頼を寄せていた、正室だけに向けた瞳。その正室が、欲に塗れる男の芯の部分を確かに見定めて、向けていた深い愛情の瞳。あの夫婦が互いに向けていたその深い信頼と愛情が、確かにこの色だったこと。この目の前のひとは己の"主"なのだと、そんなことで、三日月の心の方が頭よりも先に理解をした。
違うけれど、おなじ。存在そのものの、核とでも言おうか。魂が、三日月と確かに縁付いていた。だから屹度、このひとをこの夢幻に呼び寄せることができたのだ。

三日月は純粋に、この目の前のひとの"もの"になりたいと、唐突に、単純な欲を抱いた。肉の身を得てから虐げられ続けて傷付いたこころで、初めて抱いた"欲"だった。だからどうしても、どうしてもほしくて、何も説明せぬままに、手を伸ばす。

「三日月宗近。打ち除けが多いゆえ、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ  我が、主よ」

己の本体を掲げ、桜を舞わせて口上を述べれば、目の前の美しい人は、何事かの契りが結ばれようとしている事は察していように、やはりその瞳を甘く蕩けさせて、微笑みながら頷いた。



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