肌を焼く白い朝日に目を薄め、店先の掃き掃除をしていたトウコは、走り寄る足音にふと振り向いた。
パン、と乾いた音が響き、脳が軽い衝撃に揺れる。
遅れてじわりと頬が熱を帯び、平手で打たれたのだと気がついた。
次いで、お決まりみたいな涙声の罵声。
「この、泥棒猫っ!」
ど、泥棒……猫……。
聞き取れはしたが理解が及ばず、トウコは箒を握ったまま思考停止した。
しかしそんな事情はおかまいなしに、二発目、三発目とがむしゃらな拳が降り注ぐ。
「なんとかっ言いなさいよ! このっこの!」
泣き腫らした目で荒々しく腕を振り上げるのは、三日前に越してきたばかりのベティ・アーロンだ。
「ベ、ベティさ……っいたっ! あの、待っ……いたた」
突然の事態にトウコは避けることも忘れて、されるがままにしながら言葉を探した。
誤解があるならば弁明に努めただろうが、なにしろ思い当たる節がまるでない。いくら記憶をたどれども、彼女に会ったのは三日前が最初で最後だ。
「最低最低、最っ低!! あんなふうに愛想よくしておいて、裏で人の婚約者を盗るなんて……地獄に落ちろこの悪党!!」
「なんの話……ベティさん、待って!」
一息に言い切るなり、ベティは来た時と同様に走り去った。その背はあっという間に見えなくなり、静止の声が虚しく響く。
同じ通りにいた友人らが慌てて集まり、「いまの何!?」と驚愕を口にした。
「トウコ、あの子と何かあったの?」
友人の一人、クレアがベティの消えた方向を睨んで訊いた。周囲にいた少女らも眉を寄せている。
トウコは呆けたまま小さく首を振った。
「いや……前に店で会ったきりだから、なにもないはず……」
「そうよね……あれかな、婚約者とケンカしたとか?」
「八つ当たりってこと? あーかわいそう。頬、赤くなってる」
「どっちが最低よ。ねえトウコ?」
トウコは返事に窮してうーんとうなった。
正直、まだ状況を飲み込めていない。ここでいらぬことを言うのは避けたかった。
ベティの様子も気になる。あの言い方だとまるで、トウコが原因で仲たがいしたかのようだったが──。
「ちょっとトウコちゃん、さっきの見てたよ! なんだいあの子、いきなり人のことぶったりして!」
「俺、一発仕返ししてこようか?」
一連の流れを見ていた商店街にの住人まで集まってきて、トウコはハッと顔を上げた。
いつの間にか周囲に人だかりができて、そこから伸びた手がトウコの顔を掬って「こりゃひどい!」と怒りの声をあげた。
「トウコちゃんが何したって言うのさ!」
「婚約者がトウコに見惚れて嫉妬したんじゃない? あの坊ちゃん、越してきてから毎日肉屋をのぞいてたよ」
「え」
「はあ!? そんなのトウコちゃんのせいじゃないじゃん! 痴話ゲンカなら家でやってろっての!」
まずい。これは何かがまずい。
またたく間に集団の怒りが膨らんで、トウコは背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。
イアン・ストークスが店を見ていたのは初耳だが、まだ正確な事情は何も分かっていない。憶測で怒る段階ではないはずだ。
それに、ベティは泣いていた。それを見ていた人もいるはずなのに。
「わたし、ちょっと追いかけて事情聞いてくるね」
「やめなよ! なにされるか分かんないよ!?」
「大丈夫だって。とりあえず二人で話したいから」
「勝手に誤解しといて、トウコちゃんが話すことなんかあるもんか! トウコちゃんがどんな子か、おばちゃん知ってんだよ。ああ可哀想に、可愛い顔をこんなに腫らして!」
まただ。また、無視されている。人々の目にトウコは映っていない。
無断で頬を包まれたり、頭をなでられたり、抱きしめられたり、なぜ自分はこんな人形のような扱いを受けているのだろう。なぜこんなふうに好き勝手に触れられて、そのくせ意見のひとつもまともに受け取ってもらえないのだろうか。
本当にトウコを知っているならこのくらいは心配に値しないとわかるはずだ。トウコが町一番の巨躯を誇る父を投げ飛ばせると知っていて、少女の平手一つに騒ぐ必要なんかないはずだ。
かわいそう。嫉妬。許せない。見ていただけの人々が、そんなことを勝手に言っている。その中にベティを心配する声はなく、トウコの意見に耳を貸す者もまたいない。
いつの間にか人だかりが大きくなっている。二十人近くはいるだろうか。見ると半分は面識のない人々だ。近頃この町は知らない顔が増えた。
「平気ですよ。両親との組手に比べたら、こんなの全然」
「そういう問題じゃねーだろ。顔殴るとかありえねえ」
「殴られたわけじゃ」
「いいからトウコちゃんはそれ冷やしといで!」
「そうよトウコ、私たち手伝うよ。家入って休も?」
「いやこのくらい別に……」
目が熱くなって服のすそをぎゅっとつかんだ。
涙なんて流そうものならまた好き勝手に受け取られる。トウコの存在は場に火をつける着火剤にはなっても、火を鎮める力はないのだ。
思うに、そもそも鎮まりたい人がこの場にいない。彼らはただ、か弱く可愛い少女を守る自分、そういうものに酔っているのだ。
自分の心配をしている相手に抱く感想ではないが、トウコにはそう思えてならなかった。
そして熱に浮かされたまま、人々の足はアーロン家へと向かいはじめた。
「待ってってば! ベティさんの話も聞かないと……!」
意外と力の強い友人らに両サイドを固められ、家の中へと引きずられていく。その間にも人の群れは歩みを止めない。
「分かってるよ、おばちゃんが代わりに聞いてきてやるから。話するだけだから心配しなさんな」
「俺らも一言言いたいだけだし。トウコちゃんを虐めんなってハッキリ言ってやっからな」
「……やめて!!」
腹の底から声を張り上げると、空気が冷たく固まった。
静かに振り返る目、目、目。両隣の友人の顔なんて、怖くてとても見られない。
「ベティさんとは今度、自分で……話しますから」
心配されている身でこういう言い方はよくない。わかっている。きっと顰蹙を買う。そう広くはない街だから、両親に迷惑がかかる。
けど、こんな人数で泣いてる女の子の家に押しかけて問いただすなんて、していいわけがない。
「心配してくれてありがとうございます。けど……何もしないでくれませんか」
§
なんとか人の目から逃げ出し、ようやくひと心地ついてトウコは大きく息を吐いた。
こういうときは騒ぎの原因が消えるに限る。
イズミがあの場にいたなら一喝で、シグなら一睨みで鎮めてくれただろうが、トウコはどうにも上手くやれない。そもそも意見を聞く対象と思われていないのだ。
トウコは透明人間だ。誰の目にも映らない。みんなが見ているのはトウコじゃない。
集団において、自分が中身とおよそ似つかわしくないキャラクターを割り振られることも、そのとき実際の人格は重視されないことも、短い人生のうちに悟る機会はいくつもあった。
「……情けないなぁ、わたし」
生い茂る木々の下。氷の桶いっぱいに張った冷水に足をひたして、青々とした草のベッドに倒れこむ。
ここはカウロイ湖の中央に浮かぶ無人島。トウコ以外には誰も来ない秘密の場所だ。
トウコは昔からここが好きだった。修行という名目で一ヶ月の無人島暮らしを強いられたときは死にかけたが、それまでもそれからもちょくちょくと遊びに来ている。
なにしろ無人だ。聞こえるのは吹き抜ける風の音と、サラサラとこすれ合う草の音だけ。静かで、穏やかで、自分の部屋のように気兼ねしない。
トウコはふと頭に浮かんだ歌を口ずさんだ。どこか懐かしいメロディが心に染み渡る。知らない土地の名前を自然と音に乗せる。
「”東の果ての海の、小さな島の国”……」
気持ちいい。近頃ひとりが楽だ。いま、ここには自分しかいない。
「変わった歌だな」
「……」
はずだった、のに。
まったく歓迎していない来訪者の声に、トウコはむくりと半身を起こした。
「隠れて歌の練習か? 付き合ってやるよ」
「大きなお世話。放っておいて」
カリカリと手元のスケッチブックに錬成陣を描き込み、男と自分の間に氷の壁を築いた。
グリードは意表を突かれた顔をしたが、ひらりと避ける。
「おっと。錬金術か? 意外と腕がいいな」
失態だ。何かいるのは分かってはいたが、どうせ兎か狐だろうと気に留めなかった。
次からは夕飯のおかずを一品増やすつもりで、近付く動物は全て狩ろう。容赦なく。
「まあそう邪険にすんなって」
「そっちこそ邪魔しないでよ」
二枚三枚と壁を追加しても何のその、グリードは全て何食わぬ顔でかわしていく。
トウコは諦めて自分が移動することにして、足早に波打ち際へ向かった。しかし当然のように黒ずくめの男が後ろをついてくる。
「なあ、こんなとこで何やってたんだ?」
「……別に、なにも」
ほとぼりが冷めるまでここにいようと思っただけだ。
けど、もうひとつ理由を挙げるなら──。
「案外、一人が好きなんだな。高嶺の花の裏の顔を見つけたり、ってか」
にやりと得意げにグリードが笑う。
「いやぁ、いい場所見つけたな。おまえの周りっていつも人がいんだろ。毎度話しかけるタイミングに苦労してんだぜ?」
「じゃあ話しかけないでよ……」
疲れ切った顔でトウコは言った。
たしかに一人は好きだ。決して人嫌いではないが、人の多い場所はなんとなく居心地が悪い。言い過ぎかもしれないが、居場所がないとさえ感じることもある。
誰もが自分の味方になってくれるのに、おかしな話だけれど。
「なあ、もう怒ってねえのか?」
「なにが?」
「この前なんか腹立ててたろ」
「……あ、あー」
そういえば、頂き物のクッキーを全部とられて怒ったのだった。
「忘れてたのかよ」
「いや怒ってる、怒ってるよ。もう話しかけないで」
「怒ってねえならいいや」
「聞いてた?」
まあ実際あれから三日も経ってすっかり忘れていたし、今さら蒸し返すほどのことでもない。
そもそも、そのクッキーをくれた張本人に今朝ぶたれたのだ。一体なにに怒るべきなのかよく分からなくなってしまった。
「これで機嫌直せって言うつもりだったんだが、もう直ってんな。いるか?」
「お酒ならいらない」
掲げられたのは真っ黒な紙袋だ。中からはコルク付きの大きな瓶がのぞいている。
「いやジュース。とクッキー」
「いる!」
反射だった。あとからしまったと思うがもう遅い。
言い寄ってくる相手から物を受け取るのはよくないというが、これはお詫びの品らしいから問題ないだろうと心の中で自分に言い訳する。
お昼を食べずに出てきてしまって空腹なのだ。
「ふっ、くく……」
トウコが破顔してクッキーの缶を開けていると、グリードはうつむいて肩を震わせた。
「……なに?」
「いや、初めてご機嫌取りが成功したなと思ってよ」
「……これまでは失敗してたみたいな言い草だけど」
その逆はあれど、機嫌を取られた覚えなどない。
出会って以来なにかとトウコを構うこの男だが、やっているのは無意味に神経を逆撫でする言動だけだ。
「いい、忘れろ。よしよし、ちょっと分かってきたぜ」
トウコを置いてけぼりにグリードは勝手にひとりで納得している。
……とても好きにはなれない男だが、悪意はないらしい。詫びとはいえ食べ物も受け取ってしまったことだし、あんまり突っぱねるのも悪い気がしてきた。
「……あの、食べる? 一緒に」
「お、いいのか? なんだ、今日はやけにしおらしいな」
普段は荒れてるみたいに言わないでほしい。
いつもと違うのは彼の方だ。今日は無闇に距離を詰めてこないし、人を軽んじるような言動もしていない。
だがついキツくなる口調を改めるには、初対面から今までの印象があまりに悪すぎた。
「わたしはこれが普通。目の前で好物を食べるのも悪いかと思っただけ」
「好物?」
「好きなんでしょ、クッキー。人の物を全部食べちゃうほど」
「あー……そう取ったか。ま、そういうコトにしておくか!」
これみよがしに口に出しておいて、グリードはあっけらかんと適当なことを言った。
「なに、違うの?」
「いんや大好物。今日からな」
「絶対嘘でしょ」
「いやいや、俺ァこれでもウソを吐かねぇのを信条にしてんだ。信じていいぜ?」
「……どうだか」
どうにも軽薄に響くそれはとても信用に値するとは思えなかった。
しかしその反面、遠い記憶に引っかかりを感じる。いまの言葉は確かに真実で、この男は嘘を吐かないだろうと確信している自分がいる。
馬鹿馬鹿しい妄想をかき消すように、雑に折った木の枝で地面に錬成陣を描いた。
バチリと青い光が弾けたあとにグラスが二つ残る。そこに氷も錬成し、淡い黄金色のジュースを均等に注いだ。
「ほぉ。どっから出したんだ?」
「見ての通り地面から。ガラスの材料は割とどこにでもあるから……あ、土は混ざってないから、汚くないからね」
グリードはグラスを光に透かすように眺めると感嘆のため息をついた。
「錬金術ってのは本当に便利だなあ。ウチの連中にも覚えさせるか」
「独学じゃ難しいよ」
まあ中には独学で大人の術師に並ぶ、天才的な子供もいるわけだが。
もう数年会っていない弟弟子との日々を思い出していると、鼻先にグラスが現れた。
「ほら」
小慣れた仕草で傾けられたそれに、トウコも応じて自分のグラスを重ねる。
チン、と高い音が鳴った。
さざなみの音、強い日差しとそれをさえぎる深い木々、草と湿った土の匂い。木の根に腰掛けて、青空を眺めながらグラスを傾ける──。悪くない時間だ。お酒の方が格好はつくのだろうが、この方が健全でトウコには好ましい。
「さっきの歌、何語だ? 初めて聞いたぞ」
「さあ……ん、これすごく美味しい!」
「だろ、高えからな!」
からりとグリードが笑う。
グリードは失礼な男で、人目を避ける立場にあるらしいので、おそらく悪い奴でもあるけど。
こうして普通に話す分には、気持ちのいい相手かもしれないと思った。
……けっして食べ物で気を許したわけではなく。
「飲み食いが好きならうちに来い。好きなだけ食わせてやるよ」
いい釣り餌を見つけたとばかりにグリードが誘う。
タダより高いものはない、という普遍的な教訓がトウコの脳裏に浮かんだ。
「デビルズネストだっけ? ガラ悪いお店は親が心配するから」
「ガキか」
「ガキだよ。十五歳」
「あー……まあガキだな。でも非行に走るにはちょうどいい年頃だろ?」
「走りたくないから」
「家出も歓迎だぜ」
「ない」
やはり彼はアンダーグラウンドの住人らしい。家出歓迎って、まともな大人なら決して口にしないだろう。
子供を口説いたり酒場に誘ったりするストーカー。間違いなく、今すぐ憲兵に突き出していいレベルの犯罪者だ。
「じゃあどうやったら俺の物になるんだ?」
そしてこれである。
人をモノ扱いした態度、ろくに知りもしない相手を口説く軽薄さ。
出会ってからこれまで会話のほとんどをその二つの要素が占めているのだ。印象が良いわけがない。むしろそれを取ったら奴に何が残るのだろうとさえ思う。
「物、物っていつも言うけどね。女は宝石じゃないんだよ」
今日はもう怒る気力もないが、やはり不本意な扱いは流せない。
外見で判断されるのはいい。それは美醜も老若男女も関係なく、誰にとっても日常茶飯事であり人の常だ。中身を見て欲しいなんて傲慢を言えるほど内面に自信もない。
けど、外見が良いから欲しいなんて失礼な言葉を流せるほど割り切れもしないのだ。
宝石の価値は美しさと希少性で決まる。石粒の心など誰も考えはしない。それと同じく、トウコの自我や内面などというものは、トウコの価値に含まれないのだと思うとやるせなかった。
たとえその内面が自身の評価をマイナスにしかしないとしても、ないものとして扱われるよりかはずっといいとトウコは思っている。
「そりゃそうだ。女は女、宝石は宝石。俺はどっちも欲しい。どっちも俺の物だ」
「は……」
あっけらかんとグリードは言った。
開いた口がふさがらないとはこのことだろう。よくもそんなことを臆面もなく言えるものだ。
とはいえその強突張っぷりにも、少し慣れてきた。
「……ちょっとは節操とか覚えたら? そんなに欲張ったって、二兎追う者は一兎も得ずって言うんだよ」
「なんだそれ?」
「あれもこれもと欲張ってたら、結局どっちも手に入らないって意味」
「なんだ、くだらねえ」
はっと鼻で笑ってグリードはふんぞり返る。
「この世の物全て俺の物! 金も欲しい! 女も欲しい! 地位も、名誉も! この世の全てが欲しい!」
芝居がかった調子でそう宣言して、グリードはずいとトウコに顔を寄せた。
「分かるか? 欲しいものなんか星の数ほどあるんだよ。一匹か二匹かじゃねェ。俺はこの世全ての兎をとっ捕まえるんだ」
傲慢にそう言い切った目の前の男に、言葉を失くしたトウコはとりあえず、
「……兎は一匹じゃなく、一羽だよ」
と返した。
「いちいち細かい奴だな、おまえは! そんな真面目だと友達なくすぞ」
「巨大なお世話どうもありがとう」
欲の張ったくだらない男だ。
だが不思議と──この男の欲は清々しいと思えた。
富も異性もと求める野心家はどこにでもいる。結局はモノ扱いであるあたり最低なことにも変わりはない。
けれども、あれこれと言葉をこね回す男よりはいくらか好ましい。何事も飾らない両親の影響か、トウコは裏表のない人間が好きだ。
……いや、子供相手に下心全開の、とんでもないスケコマシには違いないのだが。
しかしまあ、無理に突っぱねるほどの悪人ではないのかもしれない。
そう思い直して、トウコは口を開いた。
「おまえじゃない。わたしの名前、トウコ・カーティス」
「はいはい、トウコちゃん」
当然だが突然の名乗りは意図を解されず、猫なで声でからかわれてぎろりと睨んだ。
「ちゃん付けやめて。……じゃなくて、自己紹介!」
「あー? 俺はグリードだよ。強欲のグリード様」
なんの茶番だとでも言いたげな顔をしつつ、グリードも素直に名乗った。
「……次からは最初に名乗って、最初に聞いてよね。名前も知らない相手を口説くんじゃなく」
今さら掘り返すのはどうかとも思うが、これはやり直しだ。
いい加減、態度が悪すぎる自覚はトウコにもある。しかし急に改めるには出会いの印象が最悪すぎるのだ。
それに対しグリードはしばし考え──ようやく思い至ったという顔で
「あー! なんの話かと思ったら!」
と言ってぽんと手を叩いて笑い、すぐに呆れ顔になった。
「……なんっだおまえ、そんなことで怒ってたのかぁ?」
「お、怒るに決まってるでしょ! さんざん人権無視のセクハラしておいて、名前なんだっけ? って、失礼にも程がある!」
当然だとトウコが憤慨すると、グリードは腹を抱えて笑い出した。
「がっはっはぁ! やたら怒る気位の高い女だと思ってたら、名前! たかが名前で……!」
「いや、それはあくまでトドメの一撃であって! それまでの発言もめちゃくちゃムカついてたんですが!」
軽薄なナンパ男など珍しくもないが、あんなぞんざいかつ上から目線なナンパはそうないだろう。せめてフリだけでも、もう少しくらいは相手を尊重していいはずだ。
「そーかそーか! んじゃま、改めまして……これからよろしくな、トウコ。これでいいんだろ?」
そしてやはり、一言余計である。
「……別によろしくするとは言ってないけど」
「なんだシツレイな女だなぁ。傷つくわー」
「ぐ……っ!」
これみよがしに胸をおさえて見せて悲しがる仕草はわざとらしいにも程があるが、失礼だと皮肉られてしまえば、トウコは右手を差し出してこう返すしかなかった。
「……よ、よろしく……」
2019.08.12
2020.02.19 加筆修正