アクマイザー

五日目


山の朝は早い。肌寒いほどの清廉な大気が空を覆う。生まれ育った場所であるからかもしれないが、ピレネーの気候はとても馴染む。
大きな甕に蓄えた水をひしゃくですくい、真鍮の盥に移し変えて顔を洗う。サガは先に起き出していて、山羊小屋へ行こうと俺を誘った。山羊の乳は多少癖があるものの、サガの舌にはあったようで、このところ朝の日課は乳搾りだ。
二人で柵と屋根だけの簡単な山羊小屋へ向かう。簡素な作りだが頑丈に建てたため(聖闘士レベルでいう『頑丈』は、殆ど堅牢レベルだ)、いまのところ山羊は逃げ出す事もなく大人しく暮らしている。
その山羊の声が近くに聞こえてくると、サガの足が一瞬止まった。
理由はすぐに判った。小屋の方から覚えのある小宇宙が感じとれるのだ。
隠すつもりもないのであろう、凛とした気配。俺は息を付いた。この小宇宙はムウだ。
彼が、カノンと同じ理由でこの地を訪れたとは考えにくい。ムウはサガの被害者の一人なのである。おそらく聖域の使者として、アイオロスに命じられて言伝を運びに訪れたのだろう。
勝手に聖域を出たまま戻らぬ黄金聖闘士を、教皇がそのままに置くわけが無く、ましてサガも俺もかつての反逆者なのだ。教皇アイオロスは前教皇のシオンよりも温厚であるとはいえ、規律には厳しい。
それでもサガは顔色を変えず、またゆっくりと歩き出した。山羊は空気も読まずにメエメエ鳴き続けている。
家畜の臭いが届くほどの距離までくると、柵の隙間から山羊へ草を与えていたムウがこちらを振り向いた。
「私は、貴方がたがどこで生きようが、放っておけばよいと言ったのですがね」
アリエスの第一声は、挨拶もなく切り出された。
「あの人も、双子座と山羊座のこととなると、少し冷静ではなくなるように思います」
あの人というのは、教皇アイオロスのことだろう。
糾弾ではないムウの言葉が、俺は意外だった。
ムウは『貴方がたがどこで生きようが』と言った。『どこへ逃げようが』ではなく。
「脱走と言わないのか」
思わず零すと、ムウは呆れたような顔をした。
「それを私に問うのですか。13年前に聖域に残ることなくジャミールへ引いた私へ」
そうは言うが、あの時にムウが逃げたのだとは、サガも自分も思っていない。幼少ながら、ムウの判断は正しかった。あれと同列に語ってよいものなのだろうか。
ムウは繰り返した。
「女神への忠誠が変わらぬのであれば、どこで暮らそうが問題ないと私は思うのです。ですが、手順を無視すると兵士たちに示しがつきませんからね。まあ、貴方の召集を無視し続けた私の言えたセリフではないのですが」
本当にどうでも良さそうにムウは言う。
サガが眉を顰め呟いた。
「お前が何を伝えたいのか判らぬ、アリエス」
「いいえ、判っているのでしょう?サガ」
ムウは初めて笑った。低く、唸るように。
「貴方がどこで何をしようが、私には全くどうでもよいことなのです。ただ、あんまりアイオロスが気の毒になったから、使者を引き受けました」
「何が気の毒なものか」
「サガ、アイオロスは一人で頑張っていますよ」
「一人ではあるまい。最初から女神と聖闘士の支持のある英雄教皇に、いかほどの苦労が?」
「サガ!」
傲慢に答えるサガを、俺は流石に横からたしなめた。それはサガが言ってよい言葉ではない。
サガはちらりと俺に不満そうな視線を向けるも、自省するところはあるのか、それ以上の言葉は控えられる。ムウは目をぱちりとさせてサガと俺の顔を見比べ、それから何故か溜息をついた。
「どうも、本気でアイオロスは気の毒なようですね…。せめて、同じ黄金聖闘士仲間として、彼の施政を手伝ってあげたらどうなのです。ねえシュラ」
矛先を変えられて、俺は言葉に詰まる。勿論アイオロスの支えにはなるつもりでいる。しかし、戦闘以外知らぬ自分が、今の聖域で一体どんな役に立てるというのだろうか。
 困っていると、サガが俺の代わりに言葉を返した。
「聖域には元反逆者の影などないほうが、むしろ上手くゆく」
それもある意味、事実だろう。特にサガには信奉者も多い。サガが聖域にいるだけで、教皇へ対抗せんとする勢力の御輿にもなりかねないのだ。
ムウはその言葉をも軽く切り捨てた。
「そんなものを力で抑えられずして、何のための教皇ですか。無用の心配でしょう。言い訳は結構、アイオロスからの伝言を伝えますよ」
「…」
「『まだ君たちの力を借りたい』だそうです」
俺は隣のサガの顔を見た。サガは険しい顔をして、地面をじっとみている。
(この人は、聖域と女神とアイオロスのものなのだ)
その時初めて、俺はサガを縛る鎖に気が付いた。蘇生を受けてからこのかた、女神に刃を向けた者も全てを許され、物理的な束縛などはなにもない。
だからこそ、もっと深い部分で、サガは捕らえられてしまったのだ。
贖罪を望んでいる筈のサガが、何故聖域を出ようと思い立ったのか、今になって理解する。
そして、何故もうひとりのサガが、決して現れなくなってしまったのかも。

無限の許しが、サガを殺す。
無限の許しの等価となるのは、無限の償いだけだからだ。

「サガ、貴方はアイオロスを拒絶するのですか?」
ムウが静かに尋ねる。
しかし、口調とは裏腹に、サガを見つめるその視線には、多分に憐憫が篭められていた。
「おそらく明日には、アイオロス自身がここへ着ます。それまでに考えておいた方がいいですよ」
”何を”とまでは、ムウは言わなかった。
サガはまるで死刑宣告をうけたかのように、目を閉ざしていた。

(2009/7/1)


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