代々大上家が継いで来た、大上神社。
それは森に住まう、狼を祭る小さな祠から始まった。

『いいかい、よくお聞き。満月』

今も耳に残っている、おばあちゃんの声。

『我々"大上"はねぇ、本当はこう書くんだよ』

目の前に置かれた半紙に、おばあちゃんがゆったりと筆を置いていく。
現れた綺麗な文字は、

"大神"

と書かれていた。

『我々は"大神"様の御祠をお守りする一家だよ。だからこの特別な名前が許されたんだ』

新たに目の前に置かれた半紙には、しっかりとした違う字があった。

"狼"

『こちらが我々の神様だよ。満月』

だから森で狼に会っても、怖がっちゃダメよ。
彼等は、私たちを護ってくれる大切な大切な、神様なんだから。


* ... * ... *



「…チロ、チロ、チロ、…チロ…!」

バカの一つ覚えのように名前ばかり繰り返す満月を、青年は優しく腕に引き入れた。
頭一つ分低い満月の顔を、顎に手を添えて軽く上げる。
それは月に照らされキラキラと光る雫で濡れていたが、同時に目を瞠る美しさもあった。

「ミツキ」

脳が痺れた。胸が震えた。
なんと表現したら良いか、わからない感覚が満月を襲った。
こんなの、初めてだ。
ただ名前を呼ばれただけなのに、こんなに意味のわからない感動に襲われるなんて。

「ミツキ、ミツキ…」

先ほどのお返しとばかりに、今度は青年が満月の名前を繰り返す。

「ち、ろ…?」

不安げに返された声に、青年はまた淡く微笑んだ。
金に光る瞳は俯いたことによって黒く陰る。
涙の膜を張ったような大きな黒目には、覚えがあった。

「チロ、だぁ…!」

ぎゅっと青年の腰にしがみつく満月の顔を両手で軽く挟み、青年はその顔を近づける。
満月がゆっくりと目を閉じると、その目の端から頬へと暖かい感触が伝っていくのがわかった。

「舐めて、くれないの…?」

思わずといった様子で出た問いに、青年は少し声を出して笑った。

「今は、この姿だからね」

頬に唇が触れそうで触れない。
そんな距離でしゃべられては、吐息がくすぐったい。
身をよじる満月に青年はまた楽しそうに笑った。

「満月、」

涙の筋を伝った唇が、満月のそれへとたどり着いた。

「会いたかった」

満月の瞳からどんどん溢れ出る涙を全て掬うように、口付けが深まる。
ようやく満月の涙が止まった頃には、すっかり周りも静まっていた。

「やっぱり満月は泣き虫だね」

「ほ、本当に…チロ…?」

「ふは、今更?」

満月の発言に笑う青年は、当たり前だが犬には似ても似つかない。
思わず満月はその頭部へと手を伸ばしていた。

「わっ、と。何するんだよ、突然」

くにくにと柔らかいそれはまるで本物のようだ。

「ちょっと、それ、くすぐったいから、やめて………クハッ、もう我慢できない…!ハハッ」

今度は本格的に笑い出した青年に満月はただ驚きの視線を向けていた。
だって、耳に触ってくすぐったいって、まるでその耳が本物みたいじゃないか。

けれどそれよりも気になっていたのは、青年の背後で揺れる銀の存在だった。

「それって、電動…?」

そんな満月の小さな呟きも拾われ、青年は首を傾げる。
そして満月の視線の先に揺れる自分の尾を見て、納得したら笑いはより一層ひどくなった。

「み、満月、少し見ない間にバカになったね!」

笑いの合間に言われた言葉に満月は反射的にムッとなる。
バカと言われて喜ぶ人はあまりいないだろう。

「ち、チロは見ない間に意地悪になった!」

「俺は元からこんなんだよ。満月が気付かなかっただけ」

そういわれてみれば、そうだったような気もする。
犬のチロも耳を触るとくすぐったいようで、少し身を捩じらせていたと思えば、満月が隙を見せるとすぐにその脇腹をくすぐったものだ。
脇腹が弱い満月はすぐに笑いが止まらなくなり、また負けじとチロの耳に手を伸ばす。

そんな場面を思い返しながら、目の前の青年を改めて見上げる。

青年は未だに笑っていたが、その瞳だけは真剣だった。

「俺だよ、満月」

動物に疎い自分は、チロの犬種すらわからなかった。
それで一度、おばあちゃんに聞いたことがあった。

"ねぇ、おばあちゃん!これ、チロだよ!ミツキのわんちゃんなんだよ!"

"まぁ、………これは、まぁ…どうも、始めまして。神主の―"

"もう、おばあちゃん!チロにそんなお辞儀とかしなくていいんだよ!ね、チロ。ミツキのおばあちゃんだよ!とっても優しいんだよ!"

初めてチロを見たおばあちゃんは、ものすごく驚いていた。
そしてすぐにまるでいつも神様に挨拶するときのような態度で事故紹介を始めるから、あの時は満月の方が戸惑ってしまった。

"ねぇ、おばあちゃん。京ちゃんちがね、柴犬飼いだしたの"

"あらそうかい"

"うん。ねぇ、おばあちゃん。チロって何犬?"

"…そう、ねぇ………オオカミ犬、かねぇ"

"そっか!オオカミケン!わかった!"

そんな犬種、あるはずないのに。
何も知らずに、疑うことすらなかった。

"一般的に狼男、もとい狼人間というのは先ほど京太朗君が言ったように満月を見ることで身体的変化を及ぼし、人間から狼へと変身する妖怪のことを指す"

"しかし実は狼人間にはもう一つの説がある!今はまだマイナーだが一部のマニアたちの間ではものすごく話題になっていて―"

"つ、つまりは、長生きした狼が人間に化け、それが狼人間の由来だとも言われているというわけだ"

あぁそっか。そういうことだったんだ。
全てを飲み込むように目を閉じる満月に、青年が笑った。

「満月、ただいま」


チロが、還ってきた。


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