しかしそんなありすとは逆に、母親はこの猫にご執心だ。まだ手を付けていないご飯を置いて、部屋の隅に行ってしまったチェシャを追いかける。飼い猫のはずなのにあまり人に馴れた様子の無い猫はそんな母親をちらりと一瞥し、身づくろいを始めた。けれど母親は気にせずに猫に話しかける。


「いい子にしてた?」


すると不思議なことに、チェシャは突然母親の前に降り立ち、頷いたように見えた。いや、そんなの錯覚に決まっている。だって猫が人の言葉をわかるはずがない。


「そう、へぇ、そうだったの」


けれど母親はそんなチェシャの不思議な行動も好きみたいで、まるで人と話しているかのように振る舞う。ありすは猫のこういったところが気味悪く、あまり近寄りたがらなかった。


「ねぇ、なんて言ってるのかな」

「猫語なんてわかんないよ」


チェシャに話しかけるのに夢中だった母親が突然話を振ってくる。しかしありすはそんな猫にかまっているよりも早く晩御飯を食べた感想がほしい。特にポテトサラダが一押しだ。けれどありすの気の無い返事にも母親は一つため息をついただけで、再びチェシャに向きなおってしまった。


「チェシャちゃん、『おかえり』のスマイルは?」


すると猫は再びまるで言葉がわかったかのように、ニタァ、と笑う。もっともこの場合、チェシャに笑っているつもりがあるかどうかわからないが。正確にはただ猫の口角が持ち上がり、ピンクの歯茎とぎらついた白く鋭い歯列が覗くだけだ。さらに大きくて不思議な色合いをした瞳を見開くことで、それは大層気味の悪い表情になる。


「あーこれよこれ!この笑顔が最悪なんだよね」


笑顔を見た母親は身悶えするようにありすに言う。けれどその気持ちはありすには理解不能だ。


「そう思うならなんで毎晩やるの?」

「だってさ、疲れて帰ってきて、もうダメって気分の時にこの笑顔を見ると、なんかもう地獄の底からさらに奥深く突き落とされたような気がするじゃない。ね、しない?」

「するよ。だからどうしてわざわざそれを見るの」


母親のめちゃくちゃな理論に押されながらも、懸命に反論する。だって、嫌なら見なきゃいいというだけの話じゃないか。けれどなぜか母親は窘めるような口調でありすに言った。


「だからさ、その日店にどんなにチャラいバイトが来ても、店長が嫌味言ってきても、あー世の中にはこんな最悪なものがあるんだ。それに比べれば大したことないよなって思えるじゃない?」

「そうかなぁ」

「そうよ!お父さんも上手くつけたもんよね。チェシャ猫なんて名前」


ふと思い出したように付け足された言葉に父親の存在を思い出す。そういえば今日は急患が入ってたんだっけ。きっと帰りは相当遅くなるだろうなぁ。ソファに投げ出したままにされている成績表を見てありすはため息をつく。帰ってきてほしいような、ほしくないような。


「あんたも同じ話の登場人物同士、もうちょっと仲良くしたらどう?」


チェシャからできる限り距離を取ろうと椅子の上で小さく体育座りをしたありすを見て、母親が呆れたように言った。


「仲良くって言われても――」


ハッと意識を戻して慌てて猫に視線を移すが、



ニタア
――「あー、地獄の底」



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