我をたのめて来ぬ男
角三つ生えたる鬼になれ さて人に疎まれよ
霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ
池の浮草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け
ふと思い浮かんだ歌を口ずさむと、訝しげな視線を向けられた。
流し読みしていた本から顔を上げれば、鍛練にでも行こうとしていたのか頭に袋槍を差した文次郎が胡乱な顔つきをしていた。
無理もない。
突然状況にそぐわない歌を−−読んでいた本も『梁塵秘抄』ではなく『中庸』だ−−歌ったのだから。
「別にお前に向けて歌ったわけではないから安心しろ」
「そんな心配はしてねえよ」
「される覚えもないな」
仮にあったとしても、……想像だけで鳥肌が立つから止めておこう。
「袖にした女でも思い出したか?」
「文次郎にしては珍しく勘が冴えているじゃないか」
文次郎がぎょっと目を瞠った。
揶揄したつもりが肯定されて驚いたのだろう。
その顔があまりに阿呆らしくて、思わず笑ってしまう。
しかし、しだいにその目が険しさを帯びたのを感じ、笑みを引っ込めた。
文次郎のことだ、三禁はどうしたと言いたいのだろう。
実際は忍務のために懇意にしていたら、勝手に惚れられただけなのだが。むしろ、逆恨みされていい迷惑だ。
だが、それを説明するのは面倒で、代わりに別の言葉が口に出た。
「お前は生真面目過ぎるな。色に溺れなければよいだけだろう。まあ、お前には縁遠い話だろうが」
「おい、それはどういう意味だ」
「ほう、そこに突っ掛かるということは、女に好かれたいのか」
「そうじゃねえ!」
「ならば、男色か」
「断じて違う!」
「やはり女好きじゃないか。三禁はどうした」
「お前が言うな!」
憤慨した文次郎は立ち上がると、戸に手を掛け、荒々しい音を立てて開いた。
月に照らされ、壁に落とされた文次郎の影は、袋槍のせいで角が二つの鬼に見える。
先程の歌が思い出され、また笑みが漏れた。
「このような鬼には、なりたくはないな」
「それは俺のことか」
「他に誰かいるか?」
わざとらしく首を巡らすと、肩越しに振り返った文次郎がこれみよがしに嘆息した。
「何に苛立っているかは知らねえが、俺に当たるな」
それだけ言うと、文次郎は部屋から出ていき、すぐに闇に紛れて見えなくなった。
残された私は思いもよらぬ指摘に当惑したが、よくよく冷静に考えてみれば、存外的を射ていた。
だが、それを文次郎などに見抜かれたのが癪なため、思い付く限りの悪態を見えなくなった背中に吐いた。
歌は梁塵秘抄より。
歌意を要約すると、
『好きになった途端に来なくなったあの男なんて、人に忌み嫌われ、辛い目にあい、最後はあてもなくさ迷い歩け』
という感じです。