秘密の花
こんなちさきちゃんを見た。

高校に入学してからずっと帰宅部だった私は、終業のチャイムが鳴ったらすぐに家に帰るか友達と寄り道するかで学校に残ることはほとんどなかったけれど、三年生になってからは推薦入試の小論文や面接の対策で放課後も校内で勉強するようになっていた。
この日も私は小論文を先生に見てもらってから、図書室で試験に役立ちそうな本を漁っていた。
その途中で教室に戻ったのは、英語の教科書を置き忘れてきたことに気付いたからだ。他の教科書なら面倒くさがって放置するところだけど、英語は明日あてられる予定だ。予習をせずに挑むのは自殺行為だろう。

さて、そこで見たものを語る前に、ちさきちゃんの話をしておこう。
ちさきちゃんは高三になってはじめて同じクラスになった女の子で、特別仲がいいというわけではなかったけれど、クラスメイトとして、そして同じ推薦組として、それなりに親しくはしていた。
きっと同じクラスになるまでちさきちゃんは私のことを知らなかっただろうけど、私は以前からちさきちゃんのことを知っていた。私の学年ではちょっとした有名人なのだ。四年前、海村の人たち――地上の人間と結婚して海村を追放された人はもちろん除くけれど――がみんな冬眠してしまったなか、唯一地上に残った、いや、取り残されてしまった海の人間の子供だったから。
平々凡々なただの田舎の高校で、海のような青い瞳ときらきらと輝くエナに覆われた肌はよく目立つ。流石に三年目になるとことさら珍しがりはしないが、入学当初は注目の的だった。
でも、私がちさきちゃんに興味を惹かれたのは、彼女が海の人間だからではない。私が気にしているのは、彼女に纏わるもう一つの噂の方だ。

ちさきちゃんは木原くんと付き合っているらしい。

木原くんというのは、ちさきちゃんが居候している家の男の子だ。年は私やちさきちゃんと同じで、今はクラスメイトでもある。
その二人が付き合っているという噂が流れはじめたのは、ちさきちゃんが木原くんと一緒に暮らしているという話が広まったのと同じ頃だった。年頃の男女が一つ屋根の下、それも美男美女とくれば、なにかあると考えたくなるものなのだ。私も身近にそんなドラマみたいな状況があることに憧れ、なにかあることを期待した。

残念ながら、二人とも口を揃えて「付き合ってない」と否定しているけれど、その噂が消えることはなかった。
その理由は二人と同じクラスになってから、よくわかった。あの二人にはなにかあるような雰囲気があるのだ。それがなんなのか、具体的に説明するのは難しいのだけれど、ふとした瞬間の距離の近さとか、視線とか、ただの友人や同居人にしては妙に感じることがあった。
実は隠しているだけでとっくに付き合っているのか、本当に付き合ってはいないのか。それはわからないけれど、なにもないはずがない。
私は、そして他の人たちも、二人のことをそういう関係だと認識して見ていたのだった。

そろそろ本題に戻ろう。
英語の教科書をとりに、私は気持ち早足で渡り廊下を渡り、自分の教室に向かった。
空はすっかり夕焼けに染まっていて、遠くの方で運動部の掛け声や吹奏楽部の練習の音が響いていたけれど、教室の前の廊下はひと気がなく静かだった。

自分の教室の前に着いた時、私はあれ? と首を傾げた。教室の扉が少しだけ空いていたのだ。
そんなこと、べつに取り立てて気にするようなことではない。普段なら誰かがちゃんと閉めていかなかったのだろうくらいにしか思わなかったはずだ。それでも、何故だろう、その時の私は妙に気になって、そっと扉の隙間から中を覗いたのだった。

教室の中には二人の男女がいた。
男の子の方は寝ているらしく机に突っ伏していて顔がよく見えなかったが、私は当然のように木原くんだと思った。その男の子の前の席に横向きに座っている女の子がちさきちゃんだったから。
西日の差し込む教室は蜂蜜のような黄金色に染まり、ちさきちゃんのエナがきらきらと輝いている。
それだけですごく綺麗だったけれど、なによりも目を奪われたのは彼女の横顔だった。

ちさきちゃんは木原くんの寝顔を見つめて微笑んでいた。
花が綻ぶように、甘く、優しく、柔らかに。

なんて顔をするのだろう。
なんて愛しそうな瞳で、たった一人の人を見つめるのだろう。

ちさきちゃんは木原くんのことが好きなんだと思っていた。そうであればいいと、ドラマでも見るような気持ちで思っていた。
でも、あんな顔で木原くんを見つめるなんて知らなかった。想像もしていなかった。
まるで他人の日記を盗み見てしまったみたいにどきどきする。
ここに溢れるちさきちゃんの気持ちにあてられて、高揚感と罪悪感が入り混じってくらくらする。

そして、ふらついた拍子に教室の扉がバンッと大きな音を立てて開いてしまった。
後悔した時にはもう遅い。ちさきちゃんが目を丸くして、こちらを見た。
きまり悪くて乾いた笑いを浮かべると、ちさきちゃんは苦笑して、しーっと人差し指を唇にあてた。
それはきっと、木原くんを起こさないよう静かにしてね、という意味だったのだろう。でも、この時の私には、さっき見たことは秘密にしてね、という意味に思えて、こくこくと何度も頷いてしまった。

「ちさきちゃんも、まだ残ってたんだね」

「小論の指導が終わったらすぐ帰るつもりだったんだけど……」

小声で尋ねると、ちさきちゃんはちょっと困ったような、呆れたような顔でちらと木原くんの方を見やった。

「紡、昨日夜遅くまで勉強してて寝不足みたいだから、もう少しだけ寝かせておいてあげようかなって」

まるで母か姉のような口振りだ。寡黙だけど優しくて大人っぽいと評判の木原くんにこんな態度をとれるのはちさきちゃんくらいだろう。

木原くんを見るちさきちゃんの目は優しい。でも、先ほどのような甘さは感じられない。
それはきっと私がいるからだろう。

「ちさきちゃんは、木原くんのこと、好きなの?」

思わず訊いてしまうと、ちさきちゃんは目を見張った。
でも、すぐに取り繕ったような顔になって、慣れた口振りできっぱりと答えた。

「私と紡は、そういうのじゃないから」

なら、どうしてあんな顔で見つめていたの?

そう訊いてみたかったけれど、彼女の瞳はそれ以上踏み込むことを拒絶していて、私は「そっか」としか言えなかった。

私にはちさきちゃんが何故木原くんへの想いを否定するのかわからないし、それを尋ねる資格もない。
ただ、彼を見つめる彼女の甘く優しい花のような微笑みだけが目に焼きついて離れなかった。
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