傘一つ
バスを待つ間にぽつぽつと降りだした雨は、乗車してから激しさを増した。雨粒が窓を叩いて流れていく。見慣れた景色も雨にぼやけていつもと違って見えた。
「次は西浦」とアナウンスが流れ、ちさきは降車ボタンを押して鞄から折り畳み傘を取り出した。天気予報では降るか降らないか微妙なところだったが、持ってきて正解だった。家を出る時に、折り畳み傘くらいは持っていくよう助言してくれた勇に心の中で感謝する。

バスを降りて傘を差すと、より一層雨音が響いた。跳ねた雨水がタイツを濡らして、いつもより気持ち早足で家路を辿る。傘を差すのには慣れたが、エナに吸収されることのない水に濡れるのにはいつまでたっても慣れそうにない。
しばらく進んだところで、道の脇にある倉庫の軒先に人影を見つけた。少し気になって眺めているうちに、その人の輪郭がはっきりして、ちさきは慌てて駆け寄った。

「紡!」

空を見上げて佇んでいた紡がこちらを向く。服も髪も酷く濡れていて、毛先から雫が滴っていた。
ポケットから取り出したハンカチで紡の髪を拭うが、あまり意味はなさそうだ。

「どうしたの? 傘、忘れたの?」

「ああ。だから、ここで雨足が弱まるのを待ってた」

「弱まると思う?」

激しく雨を降らせる空を見上げる。鈍色の雲は重々しく辺り一面を覆っていて、とてもではないが晴れそうになかった。
紡も「無理だろうな」と淡々と呟いた。今ちさきが通りがからなければ、諦めてこの雨の中を突っ切っていくつもりだったのかもしれない。

「私の傘に入ったら? 折り畳みだから、ちょっと狭いけど」

「いいのか、そんなことして」

紡がどうしてそんなことを訊いてくるのかわからず、ちさきは首を傾げた。
いいに決まってるでしょ、と答えかけ、はたと気付く。自分が今、変に噂されないように学校では紡を避けて、登下校も別にしていることを。そんな自分勝手な事情を紡はわざわざ気にしてくれたのだ。
後ろめたさを覚えて、ちさきはそっと目を逸らした。

「……今は誰も見てないから」

「じゃあ、入れてくれ」

紡がそっと傘の中に入ってきたかと思うと、持ち手をとられてしまった。あっ、と声を上げ、ちさきは抗議するように紡を見上げる。

「俺の方が高いんだから、俺が持った方が楽だろ」

「そうかもしれないけど」

持たせてしまう形になってしまったことに、少し申し訳なくなる。しかし、紡の理屈は正しく、出会った頃よりも差の開いた背丈を恨めしく思った。
一つの傘に入り、一緒に歩き出す。並んで歩くことには慣れているはずなのに、傘からはみ出さないようにすると肩が触れそうなほど近付いて落ち着かなかった。
濡れるのを承知で少し距離をとる。すると、同じ分だけちさきの方に傘が傾いた。当然紡の肩が雨にさらされて、ちさきは慌てて傘の柄を掴んで紡の方に押し返そうとした。

「ちょっと、これじゃ傘の意味がないでしょ」

「俺はもう濡れてるし」

「私の方こそ、海の人間なんだから濡れても平気よ」

「海水と雨じゃ違うだろ」

力で敵うはずもなく、押し問答を続ける間も紡は雨に打たれていた。仕方なく、ちさきは開けた分だけ距離を詰めた。それでぎりぎり二人とも傘に収まる。多少は濡れるが、それは我慢しよう。

「折り畳み傘持っていくようにって、おじいちゃん、紡には言わなかったの?」

「……そういや言ってたな」

「なのに、忘れたんだ」

ちさきはこれ見よがしにため息をついた。
触れそうで触れない肩から冷えた体温が伝わってくる。次から気を付ける、と返す低い声がいつもより近くで響いて、胸がざわついた。

「帰ったら、すぐシャワー浴びた方がよさそうだね。着替えは私が用意しておくから」

誤魔化したくて、いつものように世話を焼く。
こんな事態を引き起こした雨が恨めしかったが、心臓の音をかき消してくれるのだけはありがたかった。
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