あらの煮付け
紡が勇と漁から帰ってくると、家の中に空腹を刺激するいい匂いが漂っていた。
台所に足を向け、料理をしているちさきに「ただいま」と声をかける。ちさきは青菜を切る手を止め「おかえり」と振り返った。

「ちょうどよかった。ちょっと味見してもらえる?」

ああ、と頷くと、ちさきは魚のあらを煮た鍋から汁をすくい、味見皿に注いだ。
味見皿を受け取り、口をつける。あらを使っているからか、いつものキンメの煮付けとは味付けが違ったが、これはこれでこくがあってうまかった。むしろ、こちらの方が好みかもしれない。
じっと真剣な顔で反応を窺ってくるちさきにそう伝えると、よかった、とほっと息を吐いた。

「このあらの煮付けね、お母さんの得意料理なの。私も昔から大好きで、この前教えてもらったんだ」

声を弾ませ、ちさきは顔を綻ばせる。
ふと、以前同じ場所で見たまったく別の表情を思い出した。あれは、まだちさきがこの家に来たばかりの頃だ。
あの時も眉を寄せたちさきにあらの煮付けの味見を頼まれた。だが、今と違って「うまいよ」と答えてもちさきの顔は曇ったままで、それ以来ちさきがあらの煮付けをつくることはなかった。
あの時は、なにを気にしているのかわからなかったが、

「あの時も、これをつくろうとしてたのか」

紡は独りごちた。
ちさきの目が見開かれ、しだいにきまりの悪い顔になっていく。

「そんな昔のこと、覚えてたんだ」

「覚えてるよ、お前のことは」

困ったように笑って、ちさきはもう一つの鍋に青菜を入れた。こちらは味噌汁になるらしい。コンロの横に味噌が用意されていた。

「あの時はどんなに頑張ってもお母さんの味にならなくて、どうしてちゃんと教わっておかなかったんだろうって、すごく後悔して」

鍋の中を見つめて、ちさきは目を伏せた。追想に揺れる横顔は、涙を堪えているようにも見える。
だが、ゆっくりと瞬きをしてこちらを向いた時には、晴れた日の海のような穏やかな顔になっていた。

「やっと、紡とおじいちゃんにも食べさせてあげられる」

愛しさが込み上げてきて、紡はちさきに手を伸ばした。そっと頭を撫でると、くすぐったそうに身を捩られる。だが、すぐにされるがままになって、海色の目が柔らかに細められた。
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