得難いもの
「ただいま」

「やっと帰ったか」

研究で帰りが遅くなった紡を出迎えてくれたのは、居間で茶を飲んでいた勇だけだった。
子供が生まれてから――あまり遅くならないよう気を付けてはいるが――たまに帰りが遅くなると、たいていこうだ。
この時間なら、ちさきは寝室で息子を寝かしつけているのだろう。下りてくる様子もないから、まだ寝かしつけが終わっていないか、一緒に寝てしまったのかもしれない。様子を見にいきたくなったが、寝かしつけの途中だとしたら微睡んでいる息子を起こしてしまうかもしれないと思い直し、勇と少し会話したあとは先に風呂に入ることにした。

さっさと入浴をすませ、塩水でエナを充分に潤してから二階に上がる。廊下に灯りはついていなかったが、奥の部屋からかすかに橙色の光が漏れていた。
以前は手前が紡の部屋で奥がちさきの部屋だったが、結婚してからは手前の部屋は書斎として使い、奥の部屋が二人の寝室となっていた。
音を立てないようにして奥の部屋に向かう。そっと障子を開けると、布団の中で寄り添って眠る妻と息子の姿が見えた。フロアランプの柔らかな光が二人の寝顔を照らしている。後ろ手で障子を閉めると、物音で目が覚めたのか、最初から起きていたのか、ちさきが上体を起こした。

「おかえり」

「ただいま。悪かったな、遅くなって」

「いいよ、おじいちゃんが手伝ってくれたし、透もいい子にしてたし」

三歳になる息子の頭を撫でて、ちさきは慈しむように目を細めた。
紡もちさきの隣に腰を下ろして、息子の寝顔を眺める。息子の透はペンギンのぬいぐるみを抱き締めて、気持ちよさそうに眠っていた。

「幸せそうな寝顔だな」

三歳の誕生日に買ってやったこのペンギンのぬいぐるみを透はいたく気に入って、以来どこに行くにも持ち歩いていた。保育園にまで持っていこうとして、ちさきと二人で説得してもなかなか離そうとはせず、困り果てたこともあった。最後には納得して――ぐずってはいたが――家に置いていったが、あの時は大変だった。
普段は駄々を捏ねない子なのに、時々妙に頑固になるのだ。そのたびに紡はちさきに似たのだと言い張り、ちさきは紡に似たのだと言い張っていた。

柔らかな頬を軽くつつく。
今は目蓋の下にあって見えない瞳は他の地上の人間と海の人間の間に生まれた子供と同じ青みがかった黒色だが、肌は生まれた時からエナに覆われていた。目鼻立ちは紡とよく似ているが、耳の形はちさきに似ている。
幸せそうな透の寝顔を眺めていると、自然と目元が緩んだ。

ふと、同じ顔をしているであろうちさきを横目で見やり、紡は眉を顰めた。
透の寝顔を見つめるちさきの横顔は、暗く物思いに沈んでいるように見えた。

「なにかあったのか?」

尋ねると、ちさきははっとして顔を上げた。その顔が歪んで、紡の肩にもたれかかってくる。

「……また、生理がきたの」

ぽつりと、ちさきは呟いた。
だから体調が悪いとか、気鬱になるとか、そういう話ではない。また子供ができなかったことを嘆いているのだ。
紡はちさきの細い肩をそっと抱いた。

二人目がほしい、とちさきが言い出したのは、透が二歳になってしばらく経った頃だった。
透は手のかからない子だからもう一人増えてもやっていけそうだとか、経済的にも余裕がでてきたからとか、色々理由を並べてはいたが、根っ子にあるのは透を身籠った時と同じ、愛する人との子供がほしいという願いだった。
それは紡も同じだった。透が産まれたばかりの頃はこの子一人で充分だと思っていたが、子を育てる喜びを知るうちに、叶うならばもう一人ほしいという想いが胸の内に湧き上がってきていた。
だから、すぐに了承したが、それから一年以上経っても新たな命が彼女に宿る気配はなく、最近はもうできないのではないかと気に病むようになっていた。
たまにあるらしい。一人目は問題なく産まれたのに、二人目ができないということが。初産では珍しくないとはいえ、少し難産だったからそのせいかもしれない、と暗く沈んだ面持ちでちさきは訥々と語った。

「まだ一年だろ。焦ることない」

「でも……」

「もしできなかったとしても、透がいれば充分だろ」

「それは、そうだけど……」

ちさきも今の暮らしに不足があるわけではないはずだ。時には祖父や親に助けられながら、二人で透を育てていく。それだけで充分満ち足りている。
だからといって、一度望んでしまったものを簡単に諦めて割り切ることはできないのだろう。そして、可能性を信じることもできず、全部背負い込んで自分を追い詰めてしまう。
こうなると、どんな慰めも通用しない。今、紡がしてやれることは、こうしてそばにいることだけだった。

その時、むずかるような声が聞こえた。はっとして透の方を見やると、ゆっくりと目蓋を開けて起き上がってしまった。

「おとーさん?」

「ああ、悪いな。起こしたか?」

んー、と透は眠そうに目を擦っていたが、ちさきの方に目を向けると、何故だが泣きそうな顔になって「おかーさん」とその胸に抱きついた。

「どうしたの、急に甘えん坊さんになって。怖い夢でも見た?」

ちさきに抱き締められると、透はますます強くしがみついたが、あやされているうちにまた眠くなったらしく、すぐに安らいだ顔で寝息を立てはじめた。
ちさきの瞳が優しく綻ぶ。その眼差しに先ほどの翳りはどこにもなない。
この子は自分にはできないことを簡単にやってのけるのだな、と紡は少し羨ましく思った。

「こいつは聡いから、お前が落ち込んでいることに気付いて、慰めようとしたのかもな」

ちさきがはっとして顔を上げた。その顔が一瞬自嘲するように歪む。だが、すぐに、

「透はほんと、父親似ね」

と、柔らかに微笑んだ。

「一人っ子のままでもしっかりした子に育つだろうし、もし弟妹ができても、きっといいお兄ちゃんになるだろうね」

こないかもしれない未来を語る声は明るく、焦りは感じられない。だから、紡も目を細めて、そうだな、と頷いた。

ちさきが娘を身籠ったのは、それからさらに一年後のことだった。
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