クジラの視野
盤上の戦局を見つめ、ちさきは唸った。
相対する海洋生物を模した駒たち。これを交互に動かし、先に将たるクジラを獲った方が勝ちとなる。
ちさきのクジラは敵の尖兵であるサメの目前に晒されていた。色鮮やかな海の駒たちが開け放たれた障子から差し込む日を受けて輝くさまは綺麗だが、相手に攻め込まれ陣形を乱された自陣は最早修復不可能で、自分の駒だけボロボロに見えた。
それでも活路がないかと必死で考えるが、勝ち筋など見つかるはずがない。
「ちさき」
青い遊戯盤を挟んで対面する紡が流石に急かすように呼ぶ。
ちさきは顔を上げることもなく、「もう少しだけ待って」と返した。待ってもらったところで降参以外に道はないのだが、このまま負け越すのも悔しいのだ。せめて一矢報いるくらいはしたい。
「どうして、こうなっちゃったんだろう」
先ほどから頭の中で繰り返していた言葉が、とうとう口から零れた。
紡は一度盤上に視線を落とすと、少し考えてからちさきの疑問に答えた。
「お前は一つ獲られそうになると、それを守ろうと必死になって、全体が崩れていってることに気付いてない」
「……それって、視野が狭いってこと?」
紡は無言で頷いた。
反論できず、ちさきはむきになって駒を進めた。しかし、それも読まれていたのか、考えるそぶりすら見せずに対処される。そして、お互いあと二手ずつ指したところで、ちさきのクジラは紡の手に渡った。
はたして、これで何度目の敗北だろうか。ルールを教えてもらってから何度も指しているのだが、いまだに勝てたためしがない。
「紡は全体が見えてるから、先が読めるの?」
「じいさんには見えてないって言われるけど、それでも少しは慣れてるから」
つまりは年季の差、ということだろうか。
だとすれば、紡は九歳の時から勇と対局しているのだ。最近ようやくルールを覚えたばかりの自分に勝ち目があるはずないではないか。
だが、よくよく思い返してみると、紡は何十年とやっている勇相手にも三回に一回は勝っているのだから、単純に年季だけの問題でもなさそうだ。
勝負の着いた盤面を眺めて、どこで間違ったのかを考えてみる。が、考えれば考えるほど、最初から悪手だったような気がしてきた。
と、突然盤の上に影が落ちた。
「終わったのか?」
「おじいちゃん」
見上げると、勇が終局した盤上をじっと見つめていた。
ボロ負けした結果を見られることにきまりの悪さを感じて身を捩る。勇はしばらく駒の動きを再現するように目を動かしていたが、一度深く頷くと、ちさきに顔を向けた。
「ちさき、一局付き合え」
「えっ……、私?」
紡じゃなくて? と、ちさきは目を瞬かせた。
勇は首肯し、「少し手伝ってやれ」と紡に視線をくれる。紡はそれを受けて、窺うようにちさきを見やった。
「いいか?」
「……あっ、うん」
ちさきが反射的に頷くと、紡はちさきの隣に移動した。代わりに勇が遊戯盤を挟んでちさきの前に座り、駒をはじめの位置に戻し始める。
ちさきも駒を戻しながら首を捻った。
どうして、私なんだろう?
全然勝負にならないのに。
駒をすべて整列させると、勇はちさきに先手を譲った。
ちさきは定跡通り、一番数の多いイワシを一つ前に進ませる。勇も定跡で返した。
しばらくは互いにさして悩むことなく駒を動かしていく。基本はちさきに任せるつもりなのか、紡も口をだしてはこなかった。
ぱち、ぱち、と駒を打つ音が一定のテンポで響く。が、何度目かのちさきの手番でそれが途切れた。
歩みを進めていたイワシが敵の攻撃範囲に入ってしまっている。守りに入ろうと攻められている駒に手を伸ばした時、先ほど紡に言われたことが過った。
――お前は一つ獲られそうになると、それを守ろうと必死になって、全体が崩れていってることに気付いてない。
また視野が狭くなっているのではないかと、手を引っ込めて全体を眺める。だが、それだけではなにも見えてこない。ちさきは口元に手をあてて唸った。
と、
「ちさき」
紡が自陣の駒の一つを指さした。
「これを前にだして、こっちを――」
紡が指で次に打つべき手を示してくれる。すると、視野が広がっていく気がした。先ほどまでは見えなかった道筋が見えてくる。
「そっか、それからこれをこうすれば」
ちさきは眉間に寄せていた皺を和らげた。紡がそれであってる、と頷く。
不思議な感覚だった。たった数手示してもらっただけで、さらに先の先まで見通せる気がした。
その通りに駒を進めていく。時々、思いがけない手で反撃されて躓いても、紡が手を貸してくれた。
そうやって何度も態勢を整えながら進軍していく。が、やはり勇の方が一枚上手だったらしい。何度目かの手番で、将のクジラは勇に獲られてしまった。
「まだまだ詰めが甘いな」
勇は紡に向けて言うと、席を立った。紡がわずかに苦い顔をする。
「悪い、勝てなかった」
「しょうがないよ。やっぱり、おじいちゃん強いし」
ちさき自身は負けたというのに、あまり悔しさを感じていなかった。
それよりも、いつもは勝負に拘らない紡が悔しそうにしているのがおかしくて、小さく笑みを漏らす。
「ねえ、また一緒にやってもらってもいい?」
「俺は構わないけど、なんで?」
「私一人だと見えなかったものが見えて、ちょっと楽しかったから」
盤上の駒を一つ指先でつついて遊ぶ。日の光が差す青い遊戯盤の上で、海の駒たちは生き生きと輝いていた。
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