寄せては返し、いつか満つ
紡が目を覚ました時、真っ先に目に入ってきたのは今にも泣き出しそうなちさきの顔だった。目を瞬かせ、思わず、ちさき? と名前を呼ぶ。すると、強張っていた顔が緩んだ。

「よかった」

なんでここに、と狼狽えかけたが、額に冷たいものが貼り付いていることに気付いて、これのためかと合点がいった。
ゆっくりと起き上がろうとすると、押し止めるようにちさきが手を伸ばしてくる。それをそっと片手で制して、紡は上体を起こした。

「起きて大丈夫?」

「ああ、寝てる間にだいぶ楽になった」

気休めなどではなく、本当に朝よりも回復しているようだった。寝起きのせいで多少ぼんやりとはしているが、重苦しい倦怠感はほとんどなくなっている。
しかし、ちさきはまだ半信半疑らしい。眉を寄せたまま、頬から耳の下辺りに触れてくる。思わずどきりとしてしまうが、ちさきは気付かず、ただほっと息を吐いた。

「ほんとだ。まだ少し熱いけど、さっきより落ち着いたみたい」

安堵の笑みを浮かべて、ようやくちさきは手を離した。

「汗かいたでしょ? スポーツドリンク買ってきたから、飲んで」

と、ペットボトルを渡される。礼を言って、紡はスポーツドリンクをあおった。喉が潤うと、身体がより楽になった気がした。
ペットボトルの蓋を閉めると、手を差し出してきたのでちさきに返す。ちさきはペットボトルを受け取って、枕元の盆に視線を落とした。

「あと、りんごも買ってきたんだけど……えっ?」

ちさきが戸惑ったような声を上げて、動きを止める。紡は片眉を上げた。

「どうした?」

「りんごが変な色になってて」

ちさきは狼狽えた顔で切り分けたりんごを見せてきた。
白かったであろうりんごの表面は変色して茶色くなっていた。皮を剥いたりんごをなにもせずに放置しておくと、普通に起こる現象だ。それなのに、はじめて見たような顔で慌てるちさきに紡は首を捻った。

(……いや、本当にはじめて見たのか)

りんごの変色は空気に触れることで起こる化学反応だ。それを防ぐ方法の一つに塩水に浸けておくというのがあるくらいなのだから、そもそも空気ではなく塩水で満たされている海の中では起こるはずのないことだった。

「皮を剥いたりんごはしばらく空気に触れてると、こんなふうに色が変わるんだ」

「そうだったんだ」

目を丸くして、ちさきはりんごを見下ろす。心なしか、その顔は落ち込んでいるように見えた。

「まだあるから、かえてくるね」

「それでいい。味はそこまで変わらないから」

ちさきが手に持った皿から一切れ摘まんで齧る。瑞々しさは失われていたが、甘酸っぱくてうまかった。
後半だけ伝えると、確めるようにちさきも一切れ摘まんだ。齧った途端に、なんとも微妙な表情を浮かべる。難しい顔のまま残りも口に運んで咀嚼し、ちさきはきまり悪そうに目を伏せた。

「ごめん、次からは気を付けるね」

「そんなに気にするほどでもないだろ」

「でも、ちょっとぽそぽそしちゃってるし」

ちさきは小さくため息をつく。それでも手を差し出せば、申し訳なさそうに眉を下げたまま皿を渡してくれた。
適当に一切れ手にとり、口に運ぶ。咀嚼しながら、ふと、紡は変色したりんごを見つめた。
ここまで茶色くなるには、長い時間を要するはずだ。いったい、このりんごを剥いたのはいつなのだろう。いつから、ちさきはここにいたのだろう。

「お前、もしかしてずっとここにいたのか?」

「えっと、ずっとってほどでもないよ」

ちさきは困ったように苦笑を浮かべた。答える声と表情に誤魔化しのようなものを感じて、紡は眉を寄せる。
うつったらどうするつもりなんだ。

「そこまでする必要ない」

「でも……」

「しなくていい」

知らず知らずのうちに声が低くなった。
ちさきの顔が強張る。はっとした時には、ちさきは立ち上がっていた。

「ごめん、迷惑だったよね」

「ちさ」

「本当にごめん」

背中を向けて、ちさきは部屋からでていった。ぴしゃりと障子が閉められ、衝動的に追いかけようと立ち上がる。だがその瞬間、視界が歪んだ。堪えきれず、その場にしゃがみこむ。冷や汗がふきだして、息が苦しくなった。
追いかけなければ、とは思う。だが、この状態で追いかけても、余計にちさきを気にさせるだけだろう。
仕方なく布団に倒れ込んで眩暈をやり過ごす。落ち着いてくると、後悔の念が押し寄せてきた。

(言い方を間違えた)

あんな顔をさせるつもりではなかったのに、どうしてうまくいかないのだろう。
迷惑なわけがない。ただ、うつしてしまいたくなかっただけだ。だいたい、自業自得でひいた風邪なのだ。ちさきの手を煩わせるものではない。

いや、そもそも、その考えが間違いだったのかもしれない。
もし、逆の立場だったら、きっと自分も嫌だった。そうだ、これまで遠慮されるたびに壁を感じて、傷ついていたのは自分の方だ。それなのに同じことをして、あんな顔をさせてしまった。
他人などではないと思っているのなら、遠慮せずに頼ればよかったのだ。彼女の好意を受け取るだけでよかったのだ。自分自身が、ちさきにそうしてほしいと願っているのだから。
今からでも、取り返せるだろうか。愚かにも自ら突き放してしまったものを。


******


(やりすぎちゃった)

階段の一番下の段に座り込んで、ちさきはため息をついた。
紡の言ったことは間違っていない。逆の立場だったら、きっと自分も同じようなことを言う。なのに、痛みを感じてしまった自分の身勝手さにひどく嫌気がさす。
紡も勇も当たり前みたいに受け入れてくれるものだから、なにか勘違いしていたのかもしれない。あくまで自分は世話になっているだけの他人にすぎないのに。二人があまりにも優しくて、あまりにも居心地がよくて、気付かぬうちに越えてはいけない線を越えてしまっていた。
二人の優しさに甘えずに、もっと自分の立場を弁えるべきだったのだ。そうすれば、こんな間違いを犯すこともなかった。
おふねひきの日の荒れ狂う波の音が聞こえてくる。耳を塞いでも消えることのない波が自身を責め立てた。

その時、背後で足音がした。はっとして、ちさきは立ち上がる。こんなところを見られたら、余計な心配をさせてしまう。
振り返ると、勇が洗面所から出てきた。時間帯からして、エナを塩水に浸けていたのかもしれない。
勇はこちらに近付いてくると、眉を顰めた。

「なにかあったのか?」

「えっ……と、なにもないよ」

一瞬声が詰まったが、なんとか取り繕う。これ以上詮索されないうちに、ちさきは話題を逸らそうとした。

「あっ、紡のことなら、もうだいぶよくなったみたいだよ。明日には熱も完全に下がってるんじゃないかな」

目を逸らしたまま、早口で言い募る様は不審だったかもしれない。
勇は眉を寄せたまま嘆息した。

「あいつは言葉が足りんからな」

独り言のように呟いて、勇は部屋の中に入っていった。
見張った目で開いたままの襖から中を覗く。勇は上がり端に腰を下ろして煙草を吹かせていた。

あの発言はなんだったのだろう。紡のことを指しているのはわかるが、意図がわからない。勇もかなり言葉の足りない人だと思う。
もし、すべて見抜いたうえでの発言だとしたら、自分はなにか誤解しているのだろうか。
そうやって都合のいいことを考えかけて、首を横に振る。身の程知らずもいいところだ。

だから、また階段を上がったのは、紡に会うためではなかった。自分の部屋で一人で頭を冷やしたかっただけだ。
それなのに、どうしてか紡の部屋の前を横切ろうとしたところで、足を止めてしまった。かといって、それ以上はどうすることもできない。どちらにも進めないまま立ち竦んでいると、障子の向こうから声をかけられた。

「ちさきか?」

「あっ……うん」

無視することもできず、返事をする。
逡巡するような間があって、また障子の向こうから紡の声がした。

「ちょっと、こっちにきてくれないか?」

一瞬、ちさきは頷くのを躊躇った。だが、すぐになにかあったのかもしれないと思い直し、恐る恐る障子を開ける。
紡は布団の上で身体を起こしていた。具合が悪くなったわけではなさそうだ。ほっとして障子を閉め、布団の脇に腰を下ろす。
紡はじっとちさきを見つめて口を開いた。

「さっきは悪かった」

「そんな……」

紡が謝ることじゃない、と首を横に振りかけたが、遮るように紡は言葉を続けた。

「俺はお前のことを迷惑なんて思ったことない。ただ、お前が俺のことを心配してくれるように、俺もお前のことが心配だっただけなんだ」

ちさきは目を見開いたまま、紡の言葉を聞いていることしかできなかった。
なにかが胸の奥底から込み上げてくる。都合のいい考えが、また浮上してくる。

「でも、心配してくれたことは嬉しかった。だから、」

そこではじめて言葉が途切れた。ちさきを見つめていた目が言葉を探すように動く。
これまでの言葉にどう返せばいいのかわからないまま、ちさきはただ続きを待った。
やがて、また紡はまっすぐにちさきの瞳を見つめた。

「ここにいてほしい」

その言葉にたいした意味はないのかもしれない。けれど、ちさきにはかけがえのないもののように響いて、甘い錯覚に陥らないようにと胸の奥底に押し込めようとしたものが揺さぶり起こされそうになる。
いったい、何度同じことを繰り返せば気が済むのだろう。愚かにも程がある。
それなのに知らず知らずのうちに笑みが浮かんで、ちさきは頷いていた。すると、紡も安堵したように目を細めた。



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