聞けない願い
家に着いても眠っていたので、紡はちさきを抱き上げて部屋に運んだ。手早く敷いた布団に寝かせ、額に冷却シートを貼る。
本当はパジャマに着替えさせた方がいいのだろうが、そういうわけにもいかない。それでも寝苦しそうだったので、タイだけは外して首元を緩めた。
まだエナは乾いていないようだが、万が一のことを考えると、濡らしておいた方がいいだろうか。
紡は一度風呂場に下りて桶に水を張り、塩を混ぜた。桶を持って部屋にいき、塩水に浸したタオルをちさきの首にあてる。起こさないようそっと拭ったつもりだったが、呻くような声が聞こえ、ちさきの目蓋が震えた。
うつろな目が天井を見つめ、ゆっくりと瞬きをする。ちさきは顔を傾けて紡を見上げた。
「なんで、家に……」
「よく寝てたから運んだ」
「そっか、ありがとう。ごめんね、重かったでしょ」
「べつに気にしなくていい」
上体を起こそうとしたので、「寝てろって」と手で制した。もぞもぞと、ちさきは素直に布団の中に戻っていく。
「食欲は?」
「あんまり……」
「じゃあ、おかゆにするか。つくってくるから、動けそうだったら着替えておけよ」
押し入れからパジャマと厚手のカーディガンをとりだし、買っておいたスポーツドリンクとともに枕元に置いておく。必要なら使うよう桶とタオルを示し、紡は部屋を出て台所に向かった。
米を炊いてなかったので、粥をつくるのにも時間がかかった。
米を煮ている間に鞄から弁当箱をとりだす。食欲がなかったのか、それともずっと寝ていたのか、ちさきの弁当は手をつけられてなかった。捨てるのももったいないので、自分の夕食として食べ、足りない分は冷蔵庫の中のものを適当に摘まんだ。
それから弁当箱を洗ったり、風邪薬を探したりしているうちにいい頃合いになり、コンロの火をとめて味を調えた。
盆に粥と薬と水を注いだコップをのせ、ちさきの部屋に運ぶ。粥を持ってきたことを告げると、弱々しい返事があった。
障子を開けて中に入ると、ちさきがペットボトルの蓋に苦戦していた。力が入らないらしく、何度も回そうとしては爪でプラスチックの蓋を引っ掻いている。
考えが足りなかった。最初から開けておいてやるべきだった。
「貸して」
盆を置いて布団の脇に腰を下ろし、ちさきの手からペットボトルをとって蓋を開けてやる。ちさきはきまり悪そうに礼を言って受け取り、スポーツドリンクに口をつけた。
一人で着替えられたようで、ちさきはパジャマの上にカーディガンを羽織っていた。視線を滑らすと、桶の横に乱雑に畳まれた制服が置かれている。ハンガーにかける気力まではなかったらしい。
「食えそうか?」
「うん、ありがとう。いただきます」
ちさきはスプーンで粥をすくい、ふうふうと冷ましてから口に運んだ。おいしい、と口元が綻ぶ。
続けて二口ほど食べたところで、はたとなにかに気付いたように手を止めた。
「紡はちゃんとご飯食べた?」
「さっき食った」
「なら、いいけど」
ちさきはほっと息を吐いた。
「うつるかもしれないから、手洗いとうがいも忘れないでね」
紡はわかってる、と肩を竦めた。病気の時くらい、ひとの心配などしなくてもいいだろうに。
時折咳をしながらも、ちさきはゆっくりと粥を食べ進めていく。最初は案外食欲があるように見えたが、やはり胃も弱っているのか、半分ほど残したところでスプーンを置いた。
「せっかくつくってくれたのに、ごめんね」
「無理して食べるものでもないだろ。そんなこと気にしてないで、今日はもう薬飲んで休め」
粥を下げて薬と水を手渡すと、ちさきは困ったように笑って薬を飲んだ。コップを紡に返し、また布団に横たわる。横になった方がやはり楽なのか、ほうと大きく息を吐いた。
紡はコップを盆に置き、ちさきの制服をハンガーにかけた。脱いだばかりのブラウスやタイツと盆を持ち上げ、照明の紐を引く。薄青い闇が落ち、廊下の明かりが下から差し込んだ。
「これ片付けたあとは部屋にいるから、なにかあったら呼べよ」
障子を開けようとすると、あっ、と惜しむような声が背中にかけられた。「なに?」と振り返ると、不安そうな青い瞳にじっと見つめられる。すぐに「なんでもない」と訂正されたが、紡は戻って枕元に腰を下ろした。
「眠るまでは傍にいる」
青い瞳が見開かれ、かすかに揺れた。
「そんなに甘やかしてくれなくていいのに」
「病人は大人しく甘やかされてろ」
白い頬にかかった髪が気になって、指の背でそっと払う。と、ちさきが今にも泣きそうに顔を歪めた。
「どうして、そんなに優しいのよ」
熱のせいか、本当に泣いているのか、ちさきの声は震えていた。
「優しくされたら、だめなのに……私は……」
ふいに、ちさきは口を噤んだ。これ以上余計なことを言うまいと、布団を口元まで引き上げる。なにかに縋るように、布団の端を握る手に力が籠った。
「迷惑か?」
なんとなく、そうではない気がした。だが、他に理由が思い浮かばなかった。
荒い息遣いがかすかに響く。躊躇うような間ののちに、くぐもった声が返ってきた。
「迷惑じゃないから、困ってるの」
「それは、どういう……」
尋ねるが、答えはなかった。代わりに静かな寝息が聞こえてくる。
今のは、なんだったのだろう。熱に浮かされただけの、ただのうわ言と切り捨てるには、あまりにも切実な目だった。
(ちさきは俺のことが――)
頭を掠めた考えは、これまで何度も感じたことだった。
熱の籠った眼差しに気付いた時に、それが後ろめたそうに逸らされた時に、指先が触れた瞬間の染まった頬を見た時に、柔らかな微笑みを向けられた時に。
都合のいい妄想かもしれないが、その可能性を期待せずにはいられなかった。それがちさきを苛んでいるとしても。
ふと、布団からはみ出たままの小さな手が目についた。布団の中に戻してやろうと、その手をとる。と、きゅっと力なく握り締められた。
途端に悲しみにも似た愛しさが鋭く胸をついた。
(どちらにしろ、やるべきことは変わらない、か)
ちさきの大切なものを取り戻す。
そうしてすべての時間が動いた先に、この答えもあるのだろう。
******
翌朝、起きてすぐにちさきの様子を見に部屋にいくと、すでに姿はなく、布団も片付けられていた。
眉を顰めて台所に向かうと、案の定朝食をつくるちさきの背中があった。
「起きて大丈夫なのか?」
声をかけるとちょっと肩を跳ねさせて、ちさきは振り返った。昨日よりは血色のいい顔で「おはよう」と笑みを見せる。
「もう大丈夫よ。熱もすっかり下がったから」
ちさきは胸の前で拳をつくってみせた。
そっとちさきの額に手をあててみる。昨日の熱さはまるでなかった。
「本当に下がってる」
「だから、そう言ったでしょ。信用ないわね」
「お前は、すぐ無理をしようとするから」
ちさきは自嘲するように苦笑した。身に覚えはあるらしい。
だったら改めてくれた方がありがたいが、そう簡単にいかないのがちさきの性格なのだろう。
「あとは俺がやるから座ってろよ」
「もう、心配性なんだから」
ちさきの手からお玉を取り上げて、すでに出来上がっていた味噌汁をよそうと、肩を竦められた。
「そんなに甘やかしてくれなくていいのに」
紡はかすかに目を張った。
昨日の話を蒸し返しかねない言葉をちさきが口にしたことが意外だった。
「昨日も同じこと言ってたな」
思わず呟くと、ちさきはきょとんとした顔で首を傾げた。
紡は瞬いた。
「覚えてないのか?」
「熱のせいかな、昨日のことはあまり。……ねえ、変なことは言ってないよね?」
恐る恐るちさきが尋ねてくる。
否定も肯定もできずに押し黙ると、目に見えて狼狽えだした。
「えっ、私、なにを言ったの」
「覚えてないなら、その方がいいんじゃないか」
「そんなに変なことだったの!? ……ううん、やっぱり教えてくれなくていい。だから、紡もはやく忘れて!」
昨夜とはまた種類の違う切実な目でお願いされる。
だが、そのお願いも聞いてやれそうにはなかった。