不本意なおせっかい
部屋に戻ると、退屈そうな顔でグリとシーマがベッドでごろごろしていた。もう1つのベッドの上では、ユラが備え付けのバスローブを身に纏ったNと話をしている。
別に高いものではないはずだし、部屋も夜景が綺麗なスウィートなどでは決してないのに、何故かNのバスローブ姿は一瞬ここが安いホテルということを忘れるくらい様になっていた。
なんというか、すげえ偉そうだ。ちょっと腹が立つ。
濡れたまま歩き回って部屋中を水浸しにしないか心配だったが、特に水跡はついていない。髪もちゃんと乾かされ、いつものように元気に跳ねていた。
その辺はちゃんとしているのだろうか。それとも、ユラが気を利かせたのだろうか。
せっせとNの髪をドライヤーで乾かすユラの姿が容易に想像できて、きっと後者だろうと勝手に決めつけた。
「ただいま」
「ぐりゅー」
「ヒィン」
グリとシーマが軽く身を起こし、おかえりとばかりに短く鳴いた。ユラもちょっと進み出て、ぺこりとおじぎする。
いつもと同じだ。Nは特に何もしなかったみたいだな。何かしたとしても、こいつらが急に変わるとは思えないけど。
「N」
「なんだい?」
「着替え」
横目でこっちに視線を寄越したNに服を投げ渡す。が、Nが手を出すことはなく、膝やシーツの上に白いシャツやカーキ色のズボンが散らばった。
「お前な、何してんだよ」
「どちらでも、届くことはわかっていたから」
つまり、わずかでも無駄なエネルギーは消費したくないということだろうか。
相変わらず、こいつの考えはよくわからない。
Nは膝の上に落ちた黒のタートルネックをシーツの上に置き、ベッドから腰を上げた。そのせいで、せっかくさっきまでは見下ろせた顔を見上げるはめになった。
「この場合、ボクもキミにおかえりと言うべきだろうか?」
脈絡なくとんちんかんなことを言い出すNに、オレは「はあ?」と裏返った声を上げてしまった。
「こんにちは」だの「さようなら」だの基本の挨拶すらされた覚えもないのに、いったいどういう風の吹き回しだ。
「いや、言うな。言われる義理もねえし」
「そうか。じゃあ、言わないでおこう」
口元に指をあて、Nは真面目な顔で頷いた。
「とりあえず、さっさと着替えろよ」
「そうだね」
Nは下ろした手をバスローブの紐にかけ、そのまましゅるりと解いた。そうすれば、当然前が肌蹴て――。
「待て待て待て!」
オレは慌ててユラの目を覆った。
掌の下からくぐもった声が聞こえてくるが、目の前にあるものを見せるわけにはいかない。
「お前、うちのユラになんてもん見せやがる! ユラは女の子だぞ!」
中途半端に袖から腕を抜きかけた格好で動きを止めたNが目を瞬かせる。
オレはなるべく天井を見上げて叫んだ。
「着替えるなら、バスルームでやれ! 野郎の裸を見せるな!」
「そういうものかい?」
「そういうものだろ!」
ふうん、とNは脱ぎかけたバスローブを着直し、シーツの上に散らかされた服をかき集めて背を向けた。
それがバスルームに消えていったのを認めて、オレはようやく息を吐いた。
「むーむー」
「ああ、ごめんな」
そっとユラの目を覆っていた手を外す。ユラはぐっと伸びをして、ゆっくりと瞬きを繰り返した。リクが心配そうに見上げれば、大丈夫とばかりに小さな手を振ってはにかむ。
ふと、視線を感じてオレは足元を見下ろした。何か言いたげな目で、タージャが見上げてくる。
「なんだよ」
「ジャ」
べつに、とばかりにタージャは肩を竦めた。
「どうせオレは過保護だよ」
とはいえ、こればっかりは仕方ない。
昔からベルと遊んで、もといベルの世話をしてきたせいか、人間にしろポケモンにしろ女の子は守らなければという意識が働くんだから。
「そんなことより、あいつが着替えてる間に飯の準備しようぜ」
その言葉に、グリとシーマが真っ先に反応した。
この2匹の勝負と飯にかける情熱は気持ちのいいものがある。
準備といっても、タージャに持ってもらっていたベーカリーの袋から中身を出してポケモンたちにやるだけだ。
誰になにをやるかはリクに任せ、オレはバッグからモーモーミルクの瓶を7本取り出した。うち2本はシリコン製の深い皿にあける。それをシーマとリクの前に置き、残りの5本のうち3本にはストローを差してタージャとグリ、ユラに手渡した。
「着替えたよ」
そうこうしているうちに、Nが戻ってきた。
いつもの服装ではあるが、帽子とアクセサリーは身に着けていない。どうやら、今夜はこの部屋に泊まる気満々のようだ。
なかば無理やり連れ込んだ形とはいえ、遠慮してくれてもいいのに。
「おい、お前も食うか?」
「もらおうか」
「じゃあ、これ。嫌いなやつでも文句言うなよ。足りなけりゃ、あとで余ったやつ食べていいから」
ポテトサラダのサンドウィッチとモーモーミルクをNに手渡す。Nはとくに表情を変えずにそれを受け取った。
好きでも嫌いでもないってことか。文句を言われたいわけじゃないが、それはそれで少し残念だ。
「それじゃ、いただきます」
手を合わせていつもの言葉を唱えれば、ポケモンたちも真似して鳴き声を上げる。
そんななか、Nだけが首を傾げた。
「それは、なんだい?」
「なんだって、なにがだ?」
「キミたちは、誰に食べることを宣言しているんだい? それも、手を合わせて」
オレはNの質問を反芻し、ようやくなにを問われているのかを察した。
「これ、食べる前の挨拶みたいなものなんだけど、お前はやらないのか」
オレの家では当たり前にやっていた食前の儀礼だが、宗教等の違いでやり方が違ったり、そもそもやらないこともあるらしい。
オレのはカントー出身の父さんから教わったもので、イッシュでは珍しいと聞く。実際、ベルやチェレンの家ではもっと長い祈りを唱えていた。
Nの出身がどこかは知らないが、知らなくても無理はないか。
「カントーとかでは、食材や作ってくれた人に感謝して、いただきますって言うんだよ」
Nにしてはもっともな疑問だったことになかば感動を覚えつつ、オレは小さい頃から散々聞かされたことを簡略して伝えた。
Nは考え込むように、わずかに背中を丸めて俯きがちになった。
「食べるということ、それはあらゆる命をいただくこと。生きるということ、それは全てに感謝すること。……キミの言うそれは、つまりこういうことかい?」
「多分、そんなとこだ」
「なるほどね」
的を射た顔でNが頷く。それから、胸の前で手を合わせて「いただきます」と呟いた。
すでに各々食事を始めていたポケモンたちを横目で見ながら、オレもチリソースがかかったホットドックを口にした。ほどよい辛さとホクホクのソーセージの塩味、柔らかいパンに染みこんだ肉汁の旨味が喧嘩することなく合わさっている。うん、これにして正解だ。
ふと、視線を感じてそっちを見やると、物欲しげな顔をしたタージャと目が合った。
「食べたいのか?」
「タージャ」
べつに、とばかりにタージャはそっぽを向く。
多分、食べたいってことなんだろうな。タージャは辛い物が好きだから。
オレはタージャの手の中にあるカレーパンに目を向けた。宣伝文句では、かなり辛いと書かれていたはずだ。
「一口やるから、タージャのも一口くれないか?」
「ジャ」
タージャは緋色の目だけを動かして、オレに視線を寄越した。
しばし逡巡するように尻尾を振り、憮然としてカレーパンをオレに差し出す。それを受け取り、代わりにホットドックを手渡した。
「ありがとな」
カレーパンを一口齧ると、とろけるようなコクとぴりりとした辛みが口の中に広がった。激辛というほどではないが、嚥下すると喉や胃にまで辛さが纏わりつくようだ。
盗み見るようにタージャに視線をやると、満足げな顔でホットドックを咀嚼していた。
「うまいか?」
「タジャ」
口の中のものを飲み込み、タージャは頷いた。
またカレーパンとホットドックを交換し、半分ほどになったホットドックに噛り付く。タージャも再び黙々とカレーパンを頬張っていた。
「ミスミ」
「なんだ」
Nに呼ばれて振り返ると、ついと食べかけのサンドウィッチを差し出された。
「食べるかい?」
突然なにを言い出すんだ、こいつは。
「嫌いなものでも文句言うな、って言っただろ。それに、食べ差しのものをひとにやろうとするなよ」
「だが、キミも先ほど同じことをしていたじゃないか」
納得いかないと言いたげな顔で、Nは的外れな反論をする。
「それとこれは違うだろ。つーか、なんなんだよ、今日のお前は。オレたちの真似みたいなことばっかしやがって」
思い返してみれば、今日のNはおかしい。いつもおかしいが、今日はおかしさの種類が違っていた。
いつもはこっちのことなんかお構いなしに好き勝手やるくせに、今日はこっちの行動に合わせたり、真似ごとをしてみたり。おかげで調子が狂う。
なのに、その元凶はしれっと答えた。
「郷に入っては郷に従え、と言ったのはキミだろう?」
「確かに言ったけど、お前がオレの言うことを聞いたことなんて、一度もなかっただろ。なのに、なんだ、その変な方向にしおらしい態度は」
Nはいやに澄んだ底の見えない瞳でオレを捉えた。
「キミの言葉に従っていたわけではないよ。ただ、キミたちの真似をしてみれば、少しはキミたちを理解できる気がしただけだ」
理解する気はあったのか。
そこにわずかな感動を覚えているうちに、Nは淡々と早口で続けた。
「キミとキミのトモダチは、虚数のはずだった。世界を変えるための数式を解く際には、考えのうちにいれる必要もないもの。だのに、キミたちは実数としてボクの目の前に現れた。それどころか、キミたちはいたるところにいた」
「増殖した覚えはねえよ」
「解を導くためには、キミたちを無視することはできない。世界を変えるために、ボクはキミたちを数式に組み込む必要がある」
Nは息を吐き、オレを見据えたまま沈黙する。
その目はオレを通して解とやらを探しているようで、居心地の悪さを感じたが、逸らしてはいけない気がした。
正直、Nの言っていることは理解できない。
が、わからないなりにわかることもあった。
多分、こいつは根っからの生真面目だ。真摯と言ってやってもいい。そして、どうやら突拍子のないような行動も、Nの中では確かな理論をもとに実行されているようだった。
だとすれば、オレもそれに見合うだけの誠実さを見せるべきなのかもしれない。
「それで、少しはオレたちを理解できたのか?」
「できたとも言えるし、できなかったとも言える」
Nにしては歯切れの悪い返事だった。
「そうか。まあ、頑張れ」
理解できるまで付き合ってやる、というセリフが喉元まででかかったが、口の中に押し込めたホットドックと一緒にのみ込んだ。
馬鹿みたいに真面目なやつに言うには、少々軽すぎる言葉だった。
ポケモンたちと残りのパンを分け合ったり、Nと異文化交流めいた会話をぽつぽつと交わしたりして――といっても、オレとNが話した回数より、オレとポケモンたちが話した回数やNとポケモンたちが話した回数の方がずっと多い――、いつもより少しだけ長い食事を終える。
それから1人で風呂に入って戻ってくると、Nがベッドの上で寝息を立てていた。その上にいそいそと布団をかけようとしていたリクとユラを手伝ってやる。
初めて見たNの寝顔は、いつもより幼く見えた。
「こうしてると、普通に見えるんだけどな」
思わず零れた言葉に、心の中でいやと否定する。
普通じゃないのがNの普通だ。Nにとって普通じゃないのがオレの普通のように。
その考えは、パズルのピースが合わさるみたいにしっくりときた。
だから、次の日の朝、皺になったシーツだけを残してNの姿が消えていても、当然のことのように思えた。
→あとがき