横殴りにされてた育子が派手に吹き飛んだ。また倒れるかと思いきや、今度は受身を取って彼女は牙を剥いた。
「おい、緒川っ!」
「見ただろ! もうコイツは……浜辺じゃない、浜辺育子の姿をした『何か』だよ!」
流石は剣道部、スコップの構えも堂に入ったものだが――感心している余裕など無かった。よろよろと後ずさる明歩の身体を支えてやり、上原はこれから起こるであろうその惨劇を見せまいと彼女の顔を伏せさせていた。
悲鳴はそこだけではない。
室内からも響いていたのだ。今しがたこちらでの状況がこうであったが為に、構える余裕は無かったが。
「キャアアアアアア!」
「うわぁああああああ! こ、こっちに来るんじゃねぇ〜〜!」
周りが取り乱すのを見ると、自然とこちらにも冷静さが戻ってくるものだった。先に我に返ったのは明歩で、明歩が叫んだ。
「茉莉!」
足元から血を流す茉莉に近づいて、明歩が手を貸した。
「茉莉、しっかりして!」
「とにかくボサボサしてる場合じゃない、早く逃げよう!」
「どこに!? ねえ、どこに……」
山を降りる? それは自殺行為に見えた。この霧の中を、この状態で? いやいやと上原は首を振った。
「とにかく荷物を……荷物を取りに帰ろう、それから――」
「先の事は後で考えるんだ、とにかくどこか安全な部屋を探して篭る!」
殴り飛ばした筈の育子がグゥ、と呻いてまたもや起き上がろうとしていた。
「畜生、何だ!? まだ動けるってのか!」
「ゾンビ――」
押し黙ったように沈黙を貫いていた根室が呟いた。
「ゾンビじゃないんスか、あれって……昔見たロメロの映画がほんとになったんですよ……センパイ」
どこか夢見心地でいるような口調で言い、根室が付け加えるように笑うのが分かった。
「いいからさっさと行くぞ根室ッ! お前もゾンビの餌になるぞ!?」
既に室内では阿鼻叫喚の攻防が繰り広げられているようであった。怪我人の茉莉を背負いながら、緒川が叫んだ。
「みんないるか!? 散り散りになるなよ、とにかくこのままどこかに立てこもるんだッ」
その声に皆がちゃんと冷静についてこられるか、といえばそうじゃない。手を繋いで走っていたカップルのうち、後ろで手を引いていた彼女の手の感触が遠ざかる。
「!?」
がくん、と引っ張られるような感覚があり振り返ってみれば、彼女が二体のゾンビに押さえつけられた挙句背中から噛り付かれていた。
「……あ……たす、助け――」
「薫!?」
「だめ、戻ったら滝野君まで死んじゃう!」
「っ……ご、ごめん……ごめん、ごめんごめんごめんごめん!!」
「いやっ、行かないで……行かないでぇえええええっ!!」
周囲には金切り声が轟いて、その声はいつまでもいつまでも彼らの鼓膜を震わせ続けるのだった。
地獄のような最中を、無事に辿り着けたのは少数だった。
礼拝堂に辿り着き、椅子やらテーブルやらで扉を封鎖し、一同の気の抜けない小休憩が始まった。
「一体……何がどうなってるんだ……」
上原が怪我をした茉莉の脚に、首に巻いていたタオルを外して何とか止血してやるが……それが意味をなしているのかもはや分からなかった。気休めにしかならないだろうと思いつつ、上原は青褪めた茉莉の顔を眺めていた。
「だから……ロメロの映画がマジになったんですって。死体が甦って動いてるんです。地獄が悪人でいっぱいになったから。センパイ、知らないんですか。有名な映画ですよコレ」
「……今は映画の話をされてもな」
少々の冷静さを取り戻した緒川がぽつりと呟いたが、全くその通りなのであった。
「血が止まらない……」
明歩が泣きそうな声で茉莉の手を掴んだ。
「どうしよう――茉莉……茉莉……」
明歩の手の平から、茉莉のものだと思われる血液が、アイスクリームでも溶け落ちたかのようにポタリと流れ落ちた。茉莉は痛みのショックによってか気を失ったまま目を開けない。
ふと、それまで黙っていたマーチが立ち上がった。
「……マーチ?」
「なあ、ゾンビものにおけるルールってのは何だ? おさらいしようか」
突然何を言い出すんだ、と言った具合に皆がマーチを見つめたが――彼の殺気だった様子に誰もが軽口を叩けるような真似は出来なかった。
「ルール? マーチ、一体何を……」
「おい、一年坊主」
マーチが指名したのは根室だった。
「お前は何かそういうの詳しそうだな。なあ、教えてくれ。ゾンビってのはどういう生態だ?」
「……、せ、生態ですか」
「ああ、そうだ」
いつものちゃらけた感じのするマーチとは違っているのを、普段の彼をよく知る上原達は分かっていた。それだけに彼のその苛立っているとも違う、絶望しているのとも違う――何か狂気的なものを孕んだ姿が恐ろしく感じられた。
「生きている人間に噛み付いて、その肉を食べます……ゾンビ達はいつでも空腹で、食べたものがどこに排出されるのかは謎に包まれていて……」
「あとは」
「腐っているので放っておけばいずれそのまま腐って死ぬんじゃないか、と指摘する無粋な輩もおりますがそれは違うっす。ゾンビが腐り出すのは、活動を止めてから始めてなんです」
「成る程。……で、活動を止めさせるにはどうするんだ?」
「脳味噌を破壊するまでです。後は心臓を撃とうが、頚動脈を切ろうが、いくら失血させようが死にませんよ。殺す方法は頭を狙って脳味噌を潰す、それだけです。古典的なのゾンビはこういうところですかね? モノによっては何をしても死なないのもいますけどね、バタリアンみたいな……」
「ふーん」
後半部はほとんど興味なし、といった具合に言いマーチは緒川が持ってきたスコップを手に取った。
「おい、マーチ?」
上原が尋ねた。
「お前それが一体……」
「一年。お前今、あからさまに大事な部分を端折ったな?」
「え?」
根室がきょとんと目を丸くさせた。
「ゾンビに噛まれた人間の事だよ。そこだけ省いた理由は何だ?」
「……!」
察しのいったのであろう明歩が慌てて茉莉に覆い被さるようにして彼女の前に塞がった。
「……やめて……、」
「どけよ、真島。俺は死にたくないんだ」
「マーチ!」
緒川が背後から彼を止めた。
「まだ状況が何も分からないうちから早とちりはよせよ、確かに何かおかしな事になってるのはもう認めよう。でもさ、何も噛まれた人間も感染するってのはまだ暫定的な情報に過ぎないだろ? だから――」
「お前も一人殺そうとしてる。浜辺の事、殴り飛ばしておいてンな事のたまう資格はねえ」
「……っ……」
「真島の前だからってカッコつけてんじゃねぇよ、バーカ」
「え……?」
その言葉に明歩が顔を上げたが、緒川は何も言えなくなっていた。
「こいつ、真島に惚れてるんだぜ。こんな事にならなけりゃあアンタに告って今晩あたり一発ファックするつもりでいたんだと!」
「や、やめろ馬鹿!」
ヤケクソ気味にげらげらと笑うマーチの胸倉を引っつかんで緒川が耳元まで顔を真っ赤にさせて怒鳴った。
明歩は何か、打ちのめされてしまったみたいにその場で静止していた。
「――ふん。そいつの事殺さないってんなら俺はここから出てくぜ」
「……」
マーチが手にしていたスコップを横手に放り投げた。
「じゃあな、後は勝手にしてくれよ。俺は一人ででも脱出するから」
「マ……」
それからマーチはバリケードのされている扉に向かってつかつかと歩き出してしまった。バリケードが解かれては危険だからと慌てて皆が駆け寄り、彼が出て行った後慌ててそこを塞ぎ始めた。
誰も彼が出て行くのを止めないで、見守ったままだった。
「あいつ……」
ちっ、と舌打ちをさせて上原がその場に頭を抱えた。
「……」
明歩はそのままの姿勢で俯いたままだった。思わぬ爆弾を落とされてしまい、緒川はどうすべきなのか考えていた。彼の言った事は勿論誇張されていたのもあったし、明歩にもそれは分かっていた。気が立って嫌味っぽい言い方になっていたのは理解していたのだが。
「あ、あの、明歩……」
緒川が前髪をグシャグシャと掻き混ぜながら言った。
「その――、あの……あいつが言った事は……半分はホントで……」
「……」
「俺が今日、明歩に告白するつもりでいたのは……本気だ。明歩の事をずっと好きだったのも」
明歩は俯いたまま顔を上げてくれなかった。
「――明歩、俺」
「今は言わないで欲しかった」
遮るように明歩の声が響いてきた。明歩は顔を伏せたままでどういう顔をしていたのか、分からなかった。
「そんな事、自棄になったみたいに今言われたって困る」
彼女の声は震えていて、泣いているようでもあった。最悪のタイミングでの告白。彼女の気持ちも分からないでも無い。友達が死に掛けているこの時に、そんな事を言われても嬉しかろうが素直に喜べるわけもないのだから。
おは緒川