今ひとつ食欲の出ない夕飯を終え、夜の礼拝が過ぎ――さっきまでの一行は同じ部屋に集まっていた。
「彩花は?」
茉莉が問いかけると、明歩は神妙な顔のままで呟いた。
「さっき寝たみたいけど……うわ言みたいに繰り返してるそうよ」
「何を?」
「『あたしが育子を殺し損ねた、育子はすぐ戻ってくるのよ』……ってね」
「……」
彩花もそうだが、戻ってこない育子の事も、そして泉水も――何だか取り返しのつかない事になってしまったのだ。好奇心旺盛なのもいい事だが、それがこんな事態を招いてしまうなんて。
「どういう意味なんだろう。殺し損ねたって。二人、仲悪かったの?」
マーチが浮かない声で問いただせば、明歩がすぐさま首を横に振った。
「ううん。そんな事はないと思うよ」
「どうかな? 人間、腹の底では何考えてるかなんて分からないよ」
泉水の事もあってなのか、マーチが皮肉っぽくそんな事をぼやくが誰も拾いもしないでいた。緒川は頭を抱え、暗く沈んだ顔のまま、もはや明歩への告白どころじゃない事を悟っていた。
「警察には連絡したのかしら」
また別の女子生徒だった。
「先生たちが何とかしてくれるからお前達は何も考えるな、とは言ってたけど」
緒川が顔を持ち上げた。
「……そういうワケにはいかねぇよな」
上原が気落ちしたように声を漏らす。何も考えるな、それこそ至難の技である。ふと、端っこの方で膝を抱えて座っていた女子生徒がぽつりと声を漏らした。
「あの――わ、私……」
「どうしたの、理香?」
「……見たんだよね」
小柄な身体をこれでもかというくらいに震わせながら、理香と呼ばれた女子生徒はジャージの袖をぎゅっと握り締めた。
「な、南雲さん達がさ……」
その名前に上原は、自分の呼吸が自然と早まった気がした。
「二人揃って霧の中に消えていったの」
「そ、それは俺達もすれ違ったんだよ。別に二人して只、散歩してただけっぽいけど?」
「でも二人共、施設の外に出て行ったよ。この霧で迷う事無く帰ってきたのっておかしくない? あの二人がもしかしたら……」
部屋の中に冷たさを伴った戦慄が走るのが分かった。つまりは、まあ、二人が何かしたんじゃないかと――普通ならそう考えるだろうな。元々、いい噂があるとも言えない兄妹なのだから尚更だった。しん、と室内に奇妙な空気が流れる中、窓際で傷心のうちボーっと外を見つめていた根室が「あ」と叫んだ。
「センパイ!」
それから立て続けに言った。
「センパイ、誰でもいいんでセンパイ!!」
「何だよ急に?」
上原が立ち上がると、根室は怯えきった様子で窓の外を指差していた。
「そ、外に! 外に誰か……」
その言葉に一同が目混ぜし、それから窓を覗きに向かった。
「あれは」
緒川が湿っぽい声を漏らした。
「――育子なの?」
その声が何故か信じられない、といったような響きを伴っていたのに気付いた。そしてその理由が何故なのかも同時に理解した。
窓の外、施設の前にボーっと立っている育子は全身傷だらけで、血に塗れていた。
「……先生……先生」
彩花はうわ言を繰り返しており、寝かされた布団の中で苦しげに呻いていた。
「どうしたの、増田さん?」
同行していた保健室教師の竹森が優しく問いただした。
「育子が――育子が――」
「ねえ、増田さん」
先程からこれを繰り返してばかりなのだった。
他の教師達は外部と何らかの連絡を取り、そして警察を呼んでくれるとは言っていたがどうするつもりでいるのだろう? 生徒の心のケアだって、立派な職務の一つだ。まずは目の前で苦しんでいるこの生徒を、何とかしてやらなくては。
竹森は静かに腰を降ろし、震える彼女の手をそっと取り言った。
「育子……っていうのは浜辺育子さんの事なのよね。同じクラスの」
「来る……来るよ……育子が」
「――それってどういう意味なのか、教えてくれないかな?」
途端に彩花の全身の震えが酷くなりだすのが分かった。上の歯と下の歯が噛み合わずに、もはや出鱈目なタップを繰り返し始めて荒っぽい呼吸を伴い――
「みんな死ぬの……食い殺されて……」
「? 食い殺されるの? 何に?」
ガチガチガチガチガチガチガチガチ――、と彼女の不規則なリズムがふと止められるのが分かった。見れば彩花の顔は、不自然なくらいに真っ白でまるで血の気が通っておらず、握り締めた手も体温が失われて行くように感じられた。
「増田さん?」
慌てて竹森は彼女の脈拍を測る。ついでから、血圧もない。これはどういう事なのだろう、理論上では死んでいるに等しいじゃないか?
竹森はぞっとして、反射的に彩花から手を放した。同時に彩花の目は見開いたまま、こちらを只じっと眺めていた。
「……先生」
そして真っ白なその顔の中、黒目がちな瞳が笑ったように歪んでいた。
「あのね……死んでから初めて分かる事があるんです」
「あ、あの……増、田さん?」
「死ぬのは痛い、苦しい、汚い事――それにとってもお腹が減るんですよ。でもね、その空腹のお陰で私達は食べる事に必死になって、そして苦痛を忘れる事が出来るんです」
震えが止まったかと思えば、彼女は途端に饒舌になってみせ、それから竹森を見上げた。黒目ばかりのその瞳孔に映された竹森の顔はひどく怯えきっている。
「増田さ……ん……痛いの? 苦しいの? それなら薬をあげるわ、だから……」
「薬ならここですよ、先生!」
叫んだ彼女の目に何か異様ともいえる、狂気的な光が宿るのを最後に――竹森の短い悲鳴が轟いた。すぐ背後、真っ白なカーテンに真っ赤な血飛沫が飛び散った。