叫ぶのとほぼ同時に、脅威は既に目の前にまでやってきていた。

「う、っわぁあああ!」

 あちこちで響き渡る悲鳴と怒号が、何かやっぱりピンと来ないままで新条は血走った眼を向ける時枝と対峙した。

「う、うおー……すげえ……マジで食っちゃったよ……ネタじゃねえのこれ?」

 もう既に自分の知る時枝ではないのだろう、こいつは――先程まで同室の生徒を捕食していた時枝が口元を真っ赤に染めながらこちらを捉えていた。その顔色は人間のものとは思い難く、何故か昔に見たピカソの絵画を思い出させた。流れは実にシンプルかつ簡潔なものだ。室内に流れ込んできた血まみれの女子生徒。何で血まみれなんだ? という全員の視線を受けながらも、質問する余地すら与えずその女子生徒は時枝にがばっと抱き着いた。

 ははあ。なるほど。こいつらデキてんのか、と思っていたが全くそうではなかったらしい。ブチブチ、と嫌な音がしたかと思うと時枝の顔半分がごっそり綺麗になくなっていた。削り取られたように、左頬が抉れて口腔内が見事に露出していた。中々にブラボーだ、怪人顔なし男の誕生の瞬間は。

「あああああああっ」

 思い出したような悲鳴がたちまり辺りを支配すると、心のどこかに居座る日和見感情を者の見事に叩き壊した。女ファースト・ゾンビは時枝の事はもうどうでも良くなったんだろうか、興味を失った玩具のように床に投げ捨てる。女子生徒は口元を拭いながら背後を振り返った。目的があってそうしたわけではなく、只、反射的にそうしただけのようないやに動物じみた動作だったが。

「ひっ……」
「や、やべえ……うわ、うわ、うわぁッ」

 彼女の標的は逃げ出した男子生徒二人に切り替わったようだ、逃げるものを追いかけるところがなんとも野生の本能的だ――そして例に倣い復活した時枝は、痙攣を繰り返しながらこちらに距離を詰めてくる。

「マジか、おい」

 新条はスマホのカメラを立ち上げながら、震える手でその被写体を捉える。手がまるでヤク中のようにガクガクと震えているのは恐れているからなのか、それとも興奮からなのか――アンモニアの匂いを嗅ぎ、時枝が彼女に襲われた瞬間漏らしていたのだと知った。そりゃあ、そういう状態の人間を笑うような奴はクソだと思う美学くらい自分も持ち合わせている。けど、その美学を上回る昂揚が芽生えた場合はどうしたらいいもんだ。

「だっせぇ。時枝マジだせえ、おもらししてんじゃねーよ。……動くなよ、いい画像撮れそうなんだから。おい。……やっべえ、やっべえよ、フォロワー百は増える――」
「ぐぐぐ、ぐえ・えぐっ」
「って、何しやがんだよ!」

 近づいてきた時枝は新条の手からスマホを払いのけると、機械はあっさり吹き飛んで床に転がった。本能的に思った、もしこれを拾い上げたら俺は次の瞬間隙を見せてあっさり死ぬ。スマホもなく、いつもはへいこらと自分を取り巻く仲間もいない。そんな自分の姿を思うと限りなく哀れを誘った。

「クソ、てめぇ……コケにしやがって。てめえ。この野郎」

 うわごとのように呻いていると、時枝の手が壁際に追い詰められた新条のすぐ眼前で止まった。は、と顔を上げると時枝の腰を掴む男子生徒の姿があった。

「う、うぉおおっ! このぉ!――前やん、早く! 俺がこいつを止めている間に早く何! とか! して! くれっ!!」
「!?」

 既視感を覚えるその顔は、ついさっき部屋の前で時枝が絡んだ――名前が思い出せない、何と言ったか……同じクラスなのに……新条はどこか麻痺した脳内で目の前の格闘とも呼べない、もはやじゃれ合いか――その光景をしばし見守った。

「な、七瀬〜! どうにかするっつっても武器! 武器ー! 何か慌ててハンガー持ってきたけど多分これ使えない気がするゥ!」
「部屋の前に花瓶があったの、見た! それで、早く! 急いでくれ、いくら太ってるからってそこは機敏に動いてくれよ!」

 大人しそうな顔して酷い事言うなこいつ、と新条が考えている間もなく太った前やんこと前田――そうだ、七瀬と前田だ。この地味コンビ――は言われた通りに彼にしては大急ぎで現れた。

「う、うぉおおお、許してくれー! すまんーっ!」

 叫びと共に飛び込んできた前田が大きくその腕を振りかぶって、時枝の後頭部をぶん殴った。何とも言えないゴツッとした音と共に、時枝の身体が放り出されたかと思うと前屈みに倒れ込んだ。

――流石デブだ、鈍くても力はあるんだろうな……

 助けてもらっておきながらなんつー言い方とは思いつつ、新条は崩れ落ちひくひくと痙攣する時枝を見下ろした。もはや時枝の首は何かおかしな方向に捻じ曲がっていて、見慣れたその顔が自分の方向を見ているのが分かった。ほどなくして、彼の身体から鮮やかな血が拡がっていくのを見届けたところで新条の意識はようやく正面へと移った。

「……何? これ」
「し、知らねえよ! ていうか先に言う事あんだろお前!」

 前田が青ざめた顔で叫ぶと、直後に七瀬がその場にふらついた。こちらは殴った張本人である前田以上に青い顔をさせていて、部屋に飛び込んできた時のような勇んだ様子はもはやこれっぽっちもないようだった。七瀬は口元を押さえると、同時にその場に蹲った。

「お、おら! 七瀬が身を挺してお前の事助けたってのに何だァ、その態度! ありがとうは!?」
「いや。だって別にそんなもん頼んでないし」
「おい聞いたかよ七瀬!? ちょ、何こいつ! 殺していいって言われたら殺してえぞ!」
「……うっ……、ぷ。ゆ、揺らさないでよ前やん……はあ」

 二人を無視し、新条は随分と落ち着いた様子で落ちたスマホを拾い上げていた。壊れていないか確認すると、どうやら落ちた衝撃で画面に僅かにヒビが入ったようだが――電源は入る。ただ、未だ圏外表示のままでネットに接続できる気配はなかった。

「チッ、まだ繋がんねえでやんの。――おい、お前らもやっぱ無理? ネット見れる?」
「いや……」

 ゲロを吐いていた七瀬だったが、吐いた事で少しは落ち着いたのかよろよろとした様子で立ち上がった。

「へえ。で、どうすんの? お前ら二人。この大混乱の中どうやって逃げるつもり? どっか島につくまで持つとも分かんないけど――案外、海に飛び込んで自殺した方が良かったりして」
「た、助けられる人は極力助けながら行く。今みたいにして……」

 真っ直ぐに向けられた七瀬の目に、新条がおやおやといった具合に肩を竦めた。

「無茶だろ。頭おかしいんじゃないのか? そんな間抜け、無視しろよ」
「自分だって襲われてたじゃないかよ、馬鹿!」

 前田が躍り出るようにして言うが、新条は意に介した様子もなくあっさり返すだけだった。

「その馬鹿を助けたのは他ならぬお前達だよ。ハッキリ言って馬鹿以下だよ。そして、そんな馬鹿の為に下手したら死ぬんだぞ? 赤の他人だぜ?」
「そ・それでも見て見ぬふりってなんかおかしいよ、出来る限りはやらないと。それで出来なくて馬鹿って言われるのはしょうがないかもしれないけど……」

 先の乱闘でずれてしまったのであろう眼鏡を掛け直しながら、七瀬が負けじと言った。言い切ってからため息を吐いた。それは深い深い、ため息であった。

「俺は嫌なんだ、そういうの」
「……」

 ハッキリ言って正論とは言い難かったし、到底理解できるものでもなかったし、恐らく今自分は彼を理解出来ないものでも見るような目つきだろう。

「はっ、偽善者」
「なっ、何もしないよりは何かする偽善者になった方がマシだ、その方がかっこいい」

 おどおどとした口調ではあったが目を逸らしたりはせずに七瀬はそう言ってのけた。

「おい七瀬、もう行こうぜ。ぐずぐずしてるとホントに沈没する気がする」
「あ、ああ」

 踵を返して悲鳴の飛び交う室外へと出た二人を、新条は喜怒哀楽のどれでもないような顔で見つめた。言った。

「早死にするぜ、お前ら! 偽善者どもは死ねばいいんだ!」

 罵るだけ罵ってみたものの、振り向く事もされなかった。引き止める事は勿論せず、只々「こいつら、おかしいんじゃねえの」というような思いだけがあった。――とにかく、とりあえず、ひとまず動こうと決めた矢先に、足首を強い力で掴まれた。がくんと視界が少しだけ降下した。

「! 時枝……」

 一時的に気を失っていただけなのであろう時枝(気絶すんのかよ、ゾンビって?)が再び覚醒したらしかった。再び血走った、ぎらぎらとした目を向けられた。だが、新条は次は幾分か冷静だった。ゲームで一回ミスったところをセーブしてやり直しているような気分で、新条は前田の置き土産の壺を手に取った。

「時枝ぁ。てめえよー、咲菜に惚れてたんだろ?」

 理性の飛んだ化け物と変異した彼にもはや言葉は通じないだろうが、ともかく。通じないからこそ、言っているのかもしれない。

「あの女とはやったのかよ。え?」

 試すような言い方をしながら、新条はもはや人語とは呼べない何かを喚き続ける時枝を見下ろした。当然、答えはない。

「考えるような事じゃねえだろ、おい。やったのか? やってねえのか? それとも誘われたか。なあ」

 これは又聞きでしかないのだが、あの女が自分以外にも色んな男に迫っていたってのは聞いていた。顔が許容範囲内であれば、誰にでもすぐにヤラせるとも聞いた。若かろうがオッサンだろうが見境なしだとも聞いた。咲菜、お前は本当に公衆便所だな。ま、もうどうでもいいけど――時枝の深爪した指が、新条の制服のシャツにかかる。
 自分で死ぬ事さえも許されないなんて、もはや同情に近い気持ちさえ生まれた。

「お前は今何で生きてんのか分かってんのか? いや、死んでるんだけど生きてるんだよ。激しく矛盾してんの、今のてめえは」

 そう言ったところでこいつは自分じゃ死ねないんだから、関係のない事なのだろうけど。突き動かされたように新条は衝動に身を任せて壺を振り下ろした。

 さっきの二人の事を何となく思い返した。助ける? 無意味すぎるだろ。止めたところで奴らは行くんだろうし、実際無視されてしまったんだけど――ま、そんな風に思う時点で自分はきっとあいつらに劣っている。だから何だというわけではないけど、でも、妙だった。頭の割れた元クラスメイトを眺めながらその違和感が掴み切れないまま……しばしの間惚けていた。

 血の匂いの満ちた室内が、妙に心地よく感じられた。





分かるわ。新条君の気持ち。
人の為に何かするって難しいよね。
人のために動くのもそうだし
人のために泣くのも案外難しい事なんだよな。
それをやってのけるオタク二人はすげえと思う。

07、俺もお前も人殺し

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