助けられた梶原さんは神代を見上げて何かお礼のような言葉を繰り返しているようだった。神代は顔色を変える事もせず、眼鏡の奥に見える理知的な双眸を少し細めるだけである。

「……ふーん」

 改めて見ると、これには中々に興味深い女だな、と新条は思った。同時にまた別の意味で面倒くさそうな女だな、とも。面倒くさい、というのはいささか語弊があるか。彼女の性格云々ではなく、彼女を取り巻く環境だとかが、という話であって……とまあ勿論、それで自ら口説きに行くような浅はかな真似もしないのだけど。

 そんなこちらの観察などは知ってか知らずか。気付いていようが気にも留めないのかもしれない。神代はその降ろした髪の毛を潮風になびかせながら、デッキ脇へと移動してしまったのだった。


「前やん、今月の映画ヒホウ読んだ?」
「まだ。あ、そういやトホホ映画『はくさいアワード』載ってるんだっけ?」
「そうそう。進撃がぶっちぎり一位でさ、マチヤマさんがすげーイジられてんの見るのも楽しみの一環だよ」
「あッ。ネタバレすんなよッ。あれはなー、特撮は頑張ってたのになー、脚本がマズいよな。大体、人気キャラの兵長をオリジナルにする時点でうんたらかんたら――あっ、オールタイムベストは? まあマッドマックスとキングスマンが抑えるのは目に見えてるっつーかヒホーのランキングって偏ってるよなぁ、恋愛映画が入る事はまず無……」

 い、と言いかけたところで誰かにぶつかった事に気が付いた。前田は昔からそうで、オタクによくある『好きなものについて語らせると周囲が見えなくなる』タイプの典型パターンだ。下がり眉を更に下がらせて、前田は慌てて隣を見やる。

「あっ、ごめんなさい……」
「いや」

 自分よりかなり上背のあるその相手をちらと見上げ、前田はもう一度申し訳なさそうに頭を下げた。相手は自分達と同じく二人いたようで、特別怒ったり不快そうな顔をするでもなくそのまま過ぎて行ってしまった。男女のペア、普通ならカップルだと判断するのかもしれないが何故かそういう風には見えなかった。
 前田がぶつかったのは男の方だ、派手な金髪に真っ黒なスーツの対比が眩しすぎるくらいだ。あまり観察するのも失礼かと思いつつ、目立つものだからついつい長く見てしまった。多分、現実には十秒も流れていなかった。けど、目が合った時間は長く感じられた。漫画だったらゴクリ、みたいな効果音がついていたかもしれない。七瀬は息をのむようにその金髪と、隣にいるこちらは綺麗な黒髪をした女性を見比べて、それからさりげなく視線を外した。

「……うぅわ、何か凄い迫力だったな」

 それで、その窮屈さから解放されるや否や前田が七瀬の言いたかった事をまるごと代弁してくれた。二人が遠ざかったのを確かめてから、前田が声を潜めて七瀬に耳打ちした。七瀬も息を止めていたのか、そこでやっと『呼吸する』という事を思い出したかのような感覚に囚われた。

「う、うん……、何だろうあの二人? カップル? 何かそういう感じにも見えないけど」
「男の人はどう見てもあれホストっぽくないかな……女の人は……そうでもない、か、なぁ? いやー……何アレ、外人?」

 同じ国の人間とは思い難い、という意味合いで前田が言いたい事は何となく分かる。だけど、それだけでは括れない威圧的な雰囲気が立ち去ったあの二人にはあった。国? いや、何だろう――もっとスケールが違う気がしていた。



 生徒達が乗船してから、かれこれ一時間が経とうとしていた頃合いだろうか。先程まではあんなにも晴れていた気候に変化の兆しが見られ始めたのは。

「船長、何か霧が出てきましたね」
「……ま、この程度なら到着までには何とかなる。進行不可って程酷くはなんねえって」

 まーたこのオッサンの適当具合が出たな、と航海士の柏木は思った。まあ、やる時はちゃんとやる人だから、堅苦しくなくて俺は好きなんだけど。と、柏木は考える。

「それより柏木、お前、どうだ」
「何がです?」
「彼女だよ、あれから彼女出来たのか? あと一か月でお前三十だろ、三十。とっとと身を固めちまえよ、な。特にお前みたいにやりたい事もないような奴ほどさっさと結婚しちまった方が楽なんだってば」
「……、いやー、無理っすよ。諦めてますよ、何か俺そういうの無理だなって。周りからも言われますもん、お前きっと三十どころか四十になっても独身のままだろうなって」
「そういう事言って、忘れられねえんだろ。三年同棲してたとかいうその彼女の事。もう忘れちまえよ、いい加減さあ。何だ、そんないい女だったのか? そいつ」
「…………」
「今日の乗客は女子高生もいっぱいいるみたいだからな、好みの子にさらっと連絡先でも渡しちまえよ。こっちから聞いたら免職モンだけど手渡す分には構わないだろ、え? 捨てられたらゼロがゼロになっただけじゃねえか別に。マイナスにはならねえよ。で、もし何か来たらゼロがイチになるってな話」
「えぇえ……、何かすごい力説してますけど仕事中っすよ、船長……」

 こういうところも含めてやりやすい事はやりやすいんだけど、たまに不安になるわけだが。――ふっ、と柏木は航海計器を眺めるふりをしながら考え込んでいた。三か月くらいは前にもなるか、あれからもう――同じ空間にいた筈の恋人の事を思いながら柏木はいささか感慨深いため息を吐いた。正確にはいい『女』ではなくて『男』だったわけで、まあ、そういう点も含めて自分は今後、そういう相手には会えないだろうなと思っているわけだ。

「何で別れたんだよ、そんなに好きだった癖して」
「――突然いなくなりやがったんですよ、本当に突然。失踪って言うんですかね」

 話すつもりもなかったのに、船長に乗せられてついつい吐露してしまった。話すつもりはないと言いつつ、実は誰かに言いたかったのかもしれないけど。

「はっはーん。そりゃ別に男作って逃げたな」
「……、いや、女です」
「女?――何だそりゃ」
「本に出てくる『ねくろ』って女の子に夢中になったらしいです」

 今度こそは本当に本当の「はあ?」が返ってきた。

「どういう事だ、複雑そうだな。今流行りのオタクか何かか、空想と現実の区別がつかないとかいう」
「そんなの俺も真相が知りたいですよ。全然ゲームもしないし漫画も読む奴じゃなかったんですけどね。只、喧嘩の時にしょっちゅう言ってたんです、この本に次ぐ『作品』を書き上げて見せる、とか何とか」
「作家志望だったのか?」
「いや、全然……本当に何かにとりつかれてたみたいでしたから。結局その本ってのも俺には見せてくれなかったし」
「何だそりゃ。危ない匂いしかしねえなあ」
「……そうですね」

 真相は明かされないまま、恋人は姿を眩ました。
 一緒に過ごしてから彼が帰ってこなかった日なんか、一度もなかった。柏木の待つ部屋に彼は必ず帰ってきてくれた。残業でも飲み会でも、一分でも定時で帰れないだろうなという日には何かしらの連絡を入れてきた。お前のその執念、死体になっても帰ってくるだろうな、と茶化したくらいの律義さだった、のに。

「三宅さん、また整備中なの?」
「そうみたいね。あの人、整備の鬼だから」
「そんな事言って二十四時間、エンジンルームに毎回毎回籠り切りってちょっと異常ですって。ご飯も食べてる気配ないし。引きこもり体質なんすかね」

 背後で柏木よりもまだ若い乗務員達が噂しているのが耳に入ってきた。三宅は勤務歴の長い男で、無口なのもあってなのか皆とあまり積極的に関わり合おうとしない人だ。離婚歴があるのもそこに原因があるのかも、なんてみんな好き勝手に噂しているが真相は不明だ。

「案外、中でゲームして遊んでんじゃないすか。エンジンいじるふりして」
「あっはは、ンなわけないっしょ。無趣味そうだしなー」

 これも更に噂だが、三宅さんは別れた元嫁に持ち家を全部渡した上に、二人の子どもに養育費と慰謝料を払い続けているという。自分は月五万のぼろアパートで極貧生活をしている、という事らしかった。

――男と女の問題って複雑だしさ、当人同士の事なんだけど……なんつーかもうちょっと何とかならねえのかなって感じだな

 そう思うのは俺が男だからなのか、男が恋愛対象だから本能的に守ろうとして味方しているだけなのか。どっちだろう。



この頃はかっしの恋人=ネクロノミコン持ち説が
出てたよぬー 真相は謎のままだ。

03、死ねばいいのに

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