序:闇にして光、光にして闇

――十九世紀末。物語の舞台はイギリスの首都、ロンドンより始まる。


 十七世紀には黒死病であるペストが大流行し、およそ十万人近くの人々が死亡したと憶測されているという。しかし十九世紀、英国のヴィクトリア女王の時代を迎えた今、英国は工業地帯を形成させる事、鉄道網を普及させる事でたちまちのうちに『世界の工場』として未曾有の経済的発展を遂げる。
 世に言う産業革命を経験したロンドンは、かつての黒死病によってもたらされた陰鬱さなど形も残さぬほどに華やかな一大消費大国へと変化を遂げて行くのだった。だがその実、人口の増加に伴い大きく開いてゆく貧富の差、下層社会の拡大、大気汚染などの都市問題も深刻化してゆく――。

 そこは、薄もやの立ちこめ日暮れも迫る田舎道だった。守るように赤子を抱いた女性と、先導するように先を駆ける少年。その背中を追いかけるように、老人が息を切らしている。

「早く……っ、修道院に向かえば――っ!」

 三人が目指しているのは、断崖に聳え立つ巨大な修道院であった。煙色の地雨が、辺りの喧騒をひた隠し、降り注ぐ雫が壊れかけのブロック塀や廃墟の壁を洗い流す。取り壊された教会は、柱が剥き出しになっていて、羽根が片方折れた天使の像には鬱蒼とツタが絡まっている。

「もう少し急いでくれ!」
「無茶を言わないで、私はこの子を抱っこしながら走っているのに」

 赤ん坊は亀のように手足をばたつかせ「おぎああああ」と一層泣き喚いた。先頭の少年が顔を上げた先では、朽ちた聖母マリアの像が手を合わせている。その顔にイシムカデが音もなく這って行くのを見ないふりして、少年は聖母像に静かに祈りを捧げた。

――どうかお助け下さい。僕達を正しく導いてください……

 ここまで駆けてきたせいで脚はもう言う事をうまくきいてくれそうになかった。只真っ直ぐ、歩く、走る、だけでそれ以上の働きを何か期待できるわけでもない。一息つく暇さえなく、一同が再び足を進めだしたが『それ』はすぐに殺意を持って追いかけてきていた。流れる雲が時々雨風を遮り、雲間から太陽を覗かせてはまた隠れた。

 彼らのすぐ背後、動物が放つ強烈な獣臭に混ざり血の匂いが迫ってきたのが分かった。飢えた大型の野犬が二頭、双眸をぎらつかせ鼻息を漏らしながら確実にこちらを追い詰めつつあった。――しかし、不可解であった。野犬、とは言ったものの果たしてその例えが正しいものなのかどうか、少なくともここにいる人間には分からなかった。その野犬は二頭とも全身の皮がめくれ落ち、肉身が露出しており、ぬらぬらと輝く粘液に包まれている。その肉塊に手足が生えただけのような物体は、おかしな場所に眼球がついていたり、虫の足を思わせる触手を伸ばしている――、

「父さんっ!」

 逃げ遅れたのはこの中で一番年配の男で、急くあまりに足をもたれさせた末にその場に転倒した。咄嗟に手を突いたものの、野犬達の方がはるかに俊敏な動作なのは明らかであった。男が、わっ、と悲鳴を上げたのも束の間二頭の魔獣は一瞬のうち倒れた男に飛び掛かった。

「父さん!!」

 続けざま声を上げたのは赤子を抱いた女性の方であった。足を止め振り返り、野犬に今にも喉元を食いちぎられそうな父の姿を目に留めた。迷った末に彼女は赤子がいるのも忘れ、片方の手に石を握り締めた。

「姉さん、何やってるんだよ!」
「だって父さんが食べられちゃう……っ」
「駄目だ! 姉さんが行ったらフィオナまで危ないよ」
「けど、だって……それじゃあ父さんが――」

 その時、割り込むように一際大きな悲鳴が響いた。見れば父の片脚が、今にも野犬によって食いちぎられようとしているのが分かった。牙を剥くその化け物によって、父の痩せた体躯が宙に持ち上がらん勢いで奇妙に踊っているように見えた。

「クソ、化け物……っ!」
「きゃあああっ」

 少年が唸り、落ちていた太い木の枝を手にした。……こんなものでどうこう出来る相手だとは当然思っていない。別に倒さなくてもいい、只時間を稼げれば――それでも堪えきれない震えを押しとどめ、少年は自らを落ち着かせるように大きく息を吐いた。父の悲鳴を聞きながら、少年は意を決したように踏み込んだ。
 自分が思っていたよりもはるかに早く、怪物はこちらの気配に気付いたらしい。一頭が振り返ったかと思うと、身体からは生えたその節足動物のような触手を動かしこちらの武器を叩き落とした。というよりは、驚いて少年が自ら手放してしまった、というのもあるのかもしれない。

「うわあ!?」
「ヒューゴ!!」

 その異様な事態に、赤ん坊はよりけたたましい声を上げた。女はもう、祈るより他にすべがなかった。赤ん坊を抱いたままでその場に崩れ落ち、女は泣きじゃくりながら手を合わせた。

「ああ、神様、どうか神様――二人をお助け下さい、神様……っ」
「姉さん、俺が何とかするから逃げてくれ! 後から必ず父さんと追いつくから……っ」

 その声が彼女に届いたのかどうか、しかし彼女はもはや錯乱状態にあるのかその場を動こうとしない。泣き喚く我が子を必死に抱きしめ、何かに縋るよう唇を噛みしめるばかりであった。そんな彼女の手の中には、クロスのネックレスが握り締められていた。磔刑に架けられたキリストをモチーフにした飾りのついた十字架を、強く強く握りしめている――。

「姉さ……っ、」

 覆い被さるように悲鳴。少年が息を切らしながら振り返ると、片脚を失った父がその場でもがき苦しんでいるのが視界に飛び込んできた。膝から下の部分は、犬の形をした化け物の口にあった。父はまるで灰を病んだ老人のように背中を丸め咳き込み、呻き、声にならない悲鳴を漏らした。数分後の自分の姿のように思えた。――共に戦ってくれる仲間か、強力な武器が欲しかった。言葉の通じない、血に飢えた狂った化け物と対峙するには無謀な程の勇気と力が必要だった。

「下がれ!」

 眼前に現れたのは、父を襲っているのとはまた別のもう一頭が伸ばす触手だった。脆い武器がものの数秒でへし折られたかと思うと、次はこちらを狙ってきたのだと分かった。分かってはいても、すぐに動けるわけでもない。――少年が反射的に顔を手で覆う。間に合わない。しかし、どうする事もできない。少年は塞いだ指の隙間から、目の前で起きている光景をはっきりと見た。

「……っ!」

 怪物の脚が千切れ、横手に生えていた大樹に叩き付けられていた。濃い血の匂いが風に乗って漂い、恐怖と衝撃が心を凍てつかせた。怯え竦んでいると、ダメージを負った怪物はバランスを崩したようにその場に倒れ込んだ。父に齧りつこうとしていた怪物も、この事態に動きを止めたようだった。獲物を変えたのか、怪物が自分達とは別の方向に牙を剥く。

 は、と少年が声を漏らした矢先に飛び掛かった怪物の頭が吹き飛んだのが見えた。まるで水を鱈腹含んだゴム風船が破裂するかのように、脳や骨の破片が血と一緒くたになって父に幾分か降りかかったようだった。一瞬何が起きたのか分からなかったが、ともかく、自分達を襲ってくる脅威は減った、という事でいいのか。

 頭を失った怪物の身体が、雨でぬかるんだ地を滑った。

「――だれだ……? 一体……」

 雨の中立ち尽くす少年が見たのは、ブラウンのチェスターコートに身を包んだ一人の青年だった。どういうわけなのか、彼は手に武器を持っていない丸腰状態でしかなかった。では、今助けてくれたのはこの青年ではない、という事なのだろうか。

「……早くその人を助けるんだ! もう一体残っている、俺が何とかするからそのうちに連れて逃げろ!」

 まとまらない思考にしばし静止していると、青年の方から声を掛けられた。少年はほとんど脊髄反射で走り出し、ぬかるんだ足場に尻餅をついている父の身体に近づいた。両脇の間から手を差し込み、起こしてあげた。片脚はもう、駄目だろうなと思った。見れば父の顔は蒼白で、痛みからというよりはショックからなのか眼球が上の方を向いて身体を痙攣させていた。

「――ヒューゴ、父さん!」

 続けざま近寄ってきた姉に、少年は慌ててそれを制そうとした。青年の言う通り、手負いとも言えどまだ一頭が残っている。むしろ傷を負った事で殺意が増長されているのだから、不用意に近づくなど殊更に危険だ。

「駄目だ!」

 少年が叫ぶのと同時に、怪物の意識は完全に姉とその赤子に移っていた。動こうにも間に合わないだろう事は行動するよりも早く分かり切った結果だった。くそ、と叫んだのが自分だったのかはたまた青年だったのか曖昧になった。

「伏せろ!」

 次の瞬間に叫んだのはコートの青年で、青年はその手を怪物に向かってかざした。ほぼ同時に、怪物は足を止め、その場でぶるぶると震え出した。気付けばその真っ赤な肉塊のような身体に幾重もの血管が浮かび上がっており、痙攣は激しさを増した。非常にグロテスクな見目に変貌した怪物の背後では、青年が目を閉じかざした手を握りしめながら静かに呼吸しているのが分かった。――何が起きているのか、理解するのには時間を要しそうだった。そう思った次の瞬間、怪物の胴体がほぼ真ん中から千切れたのが分かった。切断された胴体部からは大量の血と体液、それから腸や骨等の臓器が無造作に零れ落ちては血の華を咲かせた。

「っ……!」

 全てが終わった時、青年は肩で息をしながら額を流れる汗を拭っていた。まるで何か激しい運動でもした後のように、青年は乱れる呼吸を整えていた。――助けてもらった、助けられた、もうそんな事は少年にとってどうでもよかった。いや、どうでもよくはないのは分かっているが、それ以前に恐ろしくてしょうがなかった。何だ? 今俺は何を見たというんだ? こいつは今、武器も何も使わずに、この怪物を倒した。その事実が無性に、只々恐ろしかった。

「――大丈夫か? そちらの男性、出血が酷いようだが……」
「!」

 少し息を乱しながらやけに冷静に問いかけてくるこの男が、今は怪物以上に恐ろしくて仕方ない。武器を以てしての殺戮であったなら、まだよかったのかもしれない。得体のしれない力で得体のしれない化け物を殺した。二頭も。それも残酷な魔法か何かで!

 ほとんど失神しかけている父に近づくと、男は脚の負傷を冷静な目つきで眺めた。

「……流石に千切れた足を再生させるまでは出来ないが……出血を止める程度の治癒なら行える」
「お、お医者様なんですか!?」

 赤子をあやしながら姉が驚いた様子で尋ねると、青年は首を横に振った。

「いや。単なる霊媒さ――ほんの少し、傷を癒す力があるだけだ」
「駄目だ……」

 そう言って青年を制したのは少年、もといヒューゴである。ヒューゴはよろよろと覚束ない調子で歩みを進めながら姉と青年、それから気を失ったまま横たえられている父に近づいた。

「あんた……『魔女』なんだ。いや、男だから『魔術師』になるのか。――本で見た事がある、生まれつき妙な力を持っている奴は悪魔と契約したからそんな風になるんだって……」
「ヒューゴ……あなた、助けてくれた人になんてことを」
「魔術師は災厄を行く先々で引き起こす悪鬼の使い魔なんだぜ。今、この訳の分からない怪物に追われたのも、全部あんたのせいじゃないのか……?」
「!」

 ヒューゴの顔は笑っているようで泣いているようで、どっちとも言えなかった。痛烈なまでのその言葉に青年は押し黙り、何も言い返す気にはなれなかった。肯定したわけではないが、そのままで沈黙していると少年はそれを彼が認めたものだと受け止めたようであった。姉の手を取り、立たせそれから父の肩を掴んだ。おろおろとした動きだった。

「――怪物はそっちじゃねえか……」

 忌々し気なヒューゴの声が、立ち尽くす青年の耳にハッキリと届いた。一瞥すれば、その眼差しにははっきりと『拒絶』の念が込められているのが分かった。同じような目を、過去に別の者から向けられた事は何度もある。それらを思い出し、青年は黙る事しかできなかった。

「……」

 当然、何も言い返すことなど出来なかった。そうしているうちに、少年は嫌悪で顔を歪ませた。それを受け青年――アーノルドはふっ、と口元に自虐的な笑みを浮かべるだけにしておいた。少年はこれ見よがしなため息を吐いた。それから、立ち去る彼らの背中を、アーノルドは何もせずに見送った。時折、女性が何度か振り返りこわばった表情を浮かべ心配そうにこちらを見つめてきた。

――怪物、か……。そこまではっきり言われたのは初めてかもしれないな……

 アーノルドは歯噛みするような気持のまま、一度地に顔を向けた。やがて、血の匂いが漂う森を後にした。この強烈なまでの血も、きっと雨が全部流してくれるはずだ――それでいいのだろう。どこか諦め心地に、アーノルドは嘆息するばかりだった。

 青年の名は、アーノルド=ロマノフ。――闇の扉を開く者。闇にして光、そして光にして闇。それが彼に与えられた使命であった。

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