中盤戦


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02-2.ゲット・アップ・ルーシー



 ルーシーの中段蹴りがミットにスパーンッ、と音を立てて入り込んだ。その勢いに修一が思わず反射的に首をすぼめて目をつぶった。ゆっくりと片目だけを開いて見せ、修一が続けざま言った。

「なっ、殴られるのも嫌だし……人の顔を殴るのもどうも苦手で」

 自慢じゃないが生まれてここ三十年とちょっと、人と争う事に関しては和平的に生きてきた方だと思うので殴り合いの喧嘩なんか一度もした事はない。というかそんなの、考えるだけでもゾッとするというものだ。

 苦笑混じりに修一が答えると、ルーシーはそこでミット打ちの手を止めた。微笑交じりにこちらへと向き直ったかと思うとタオルを首にかけたままの状態で、修一の元へと歩いてくる。

「そうだね、兄さんならそう答えると思ってた」

 あどけなさの残る笑い顔でルーシーが言うと、修一の隣にどさっと腰かけた。その喋り方にしたってそうなのだが、彼は年齢の割に幼さの残る少年くささが抜け落ちない。
 が、彼が額の汗を拭った時に前髪が持ち上がったお陰なのかデコを出した顔はちょっとだけ大人びて見えた。瞬間、普段とのギャップにドッキリとしてしまいそうになったが慌ててそれを表に出さないように修一は振舞ったのだった。

「でも兄さん、真剣に考えておいたほうがいいよ。さっきの繰り返しだけどこの辺り、おかしな猟奇殺人が発生してるって言うじゃない? 子ども達の事もあるんだよ。――いざとなったら頼られるのは兄さんなんだからね」

 ソファーの上で体育座りをしながら、ルーシーがこちらを見上げる。泣きボクロのある憂いを帯びた目元で捉えられてたちまちどぎまぎとしてしまう……男といえど、彼には変な艶めかしさがある。それは美しかった姉譲りのものでもあるし、彼本来が持って生まれた天性のものとも言えるだろう。
 セーブをかけていた理性が脆くも崩れそうになるのを、修一は慌てた様子でイカンイカンと唸った。

 そして、修一のその僅かな高鳴りを見透かしたようにルーシーが少しくすっと笑った。

「僕でよければ子ども達に簡単な護身術でも教えようか? 怪我はしないようにちゃんと教えてあげるから」
「ナオ……」

 少しだけトーンを抑えてから、修一が呟いた。なに、と聞き返そうと目を丸くするルーシーの顔をそっと包み込むように抱きしめる。それでルーシーがちょっとばかり驚いたようだったが、特に何もせずそのまま自分の膝を抱え続けていた。

「――頼むからもう危ない事はしないでくれよ。お願いだから、もういなくなったりしないで欲しいんだ……」
「兄さん――」

 修一の胸に顔をうずめながらルーシーが少しだけ悲しそうに反芻する。

「だから、ナオはこの家でみんなを守ってくれればいいよ。俺がやるのは家事だけでいいだろう?」

 それでちょっと笑い調子に修一が言ってからルーシーを離した。ルーシーが肩をすくめてまたあの少年っぽい笑顔を浮かべた。が、今度はいたずらっぽい笑みに切り替わったかと思うとルーシーは修一の腰めがけて飛び付いた。

「そんな事言って兄さんったら……最近運動不足でしょ? ほら、お腹出てきてるよ。三十超えると急激に肉が落ちなくなるんだよ、気をつけないとメタボ腹になってもいいの」

 確かに、前と比べれば多少は蓄積された修一の腹肉をつまむとルーシーが歯に衣着せずに言い放った。若い頃はごくごく普通、中肉中背の体型だったというのに老化とはまこと恐ろしいものだ。――いやいや、老化ってまだ三十とちょっとじゃないか。

「う……っ、お、俺が気にしてる事を……」
「兄さん、ずっとテニスサークルで活動してきたのにそういえば最近はやめちゃったの?」
「か、家事とかが忙しいし周りはみんな子育てとか仕事で自然と来なくなっちゃうんだよ……社会人は色々あるから……うん……」

 段々と修一の声に自信が無くなっていくのが分かる。

「ほら、こう見えて腹筋割れてるんだよ? 僕って」

 そう言ってルーシーがシャツを捲り上げながら見せつけて来るので、修一も益々兄としての威厳とかプライドとかがズタズタに傷つけられていく。すっかり萎み切ってしまった修一を見てルーシーがまた悪戯っ子のようにくすりと微笑んだ。

「もう、嘘だよ兄さんってば。そんなに気にならないよ」
「そんなに……」
「あっ、全然」

 ルーシーが言い直したがへこみきった修一は沈んだままである。

「い、いいよ、無理しなくて……」
「――もう。僕はどんな兄さんでも好きなんだからいいじゃない、それで」

 いまいち慰めになっていないような台詞ののち、ルーシーが修一の膝の上に乗っかって甘える様にじゃれついた。

「でも、健康にだけは気をつけてほしいなぁ。だって心配だもの、いつも働きづくめで」
「う、うん……」

 それから左手同士、指と指とを絡めて繋いだ。ルーシーのもう片方の手が修一の頬辺りを優しく撫でるようにして触れてから、ごくごく自然に口づけを交わし合った。

 少しあってから、修一は片手でルーシーの背中に腕を回して、それから髪のうえと、まぶたへと唇を置いた。それがいつもの兄のキスの仕方だった。唇が離れてからも二人はしばらくそうやって身体を寄せあっていた。

「……ここから先は?」

 少しとろんとさせた熱っぽい目元で見上げながら、ルーシーが問い掛けた。それは十分にこちらの劣情を刺激するものであったが、修一はぐっと堪えて一歩踏みとどまる。ここは理性にものをいわせて何とか歯止めをかけるのだ。

「子ども達が起きるから駄目だ」

 努めて業務的な受け答えだった。意図してそうしたのか、意識しすぎるあまりそうなってしまったのかまでは分からないが。

 ええッ、と少し拗ねたような口調で言ってからルーシーが唇を尖らせた。が、すぐにまた艶美な娼婦の顔に切り替わる。ころころと変わる表情の多さは、一昔前の――そう、ナオだった頃の彼からは想像もできないほどに感情豊かなものに思えた。

 ルーシーはその理想的なほどに形の良い唇に自身の人差し指を宛がって、物欲しそうな子どものような眼差しを向けた。

「我慢しなくてもいいのに。――身体に悪いんだよ、何でも出せるものは出さないと」
「そ……、そうかもしれないが、ま、また今度な」

 後半の方はもはや逃げるような調子だったように思う。ルーシーがつまらなさそうにしている姿が容易に想像が出来たが、あえて見ないようにして修一はそそくさとその場を後にするのだった。


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