ナイトメア・シティ | ナノ


▼ 04-1.美しい世界で


 ネクロノミコンと共存するようになってからは食べるもの等必要としなかったせいで、食欲というものが欠落していた。食べるという事に、一切の喜びを感じられなくなった。食べたいという概念が消え失せ、かつては好物と呼べたものであろうとも欲する事がない……とハイドラはベッドの中で考えていた。それなのに今はどうだ、食欲をそそるような香りが漂ってきているのだ。

「……どう言う事だ、これは」

 と、いうわけで無意識のうちに発されたその問いかけには色んな意味が込められていたのだが。

 体力はもうほとんど消耗しきっていた、残された最後の記憶を頼りにここでこうやって寝かされている過程を辿ってみるが思い出せない。あの薄汚れた青年に拾われて、ここで寝かされているのは確かなのだが――……。

天井から、その室内を見渡すと実に簡素というかぼろっちい家で、まるで戦後の家みたいだ。資料集なんかで目にしたようなあばら家にテレビは見当たらないしあるのは本棚、机、それと床に散らばる絵具や筆、鉛筆等の画材にスケッチブック。外の情報はどうやって得ているのか、と思うが散らばる画材などと一緒に置かれたラジオがその手段か。それと洗濯物が、描かれたばかりなのであろう絵と一緒に洗濯バサミで吊るして干してある。

 幾分か体力の消費は激しかったが、傷はもうすっかり癒えている。撃たれた個所や目に手の平を添えて確かめるがあとはもう時間経過によって完全に回復するはずだ。よく見ると傷を負った場所にはガーゼや包帯などの処置が施されていたが――あの青年がやったものだろう。

 まぁ、そんな施しなど無くても時間さえあれば治癒できたのだが、あのまま野ざらしにされていれば弱っている間に誰かにトドメをさされていた可能性だってある。そう考えたら確実に寿命が延長されたのは確かだろうが……、

「はい。お、お、起きましたか?」

 癖なのか何なのか、青年はまたもやおかしなタイミングで「はい」と言った。青年は比較的長めな、長い事美容室できちんと手入れしていなさそうな髪型(大方自分で切っているに違いない、切り口がめちゃくちゃなカットだ)が何となく不潔そうな印象を与える。

 猫背で、気の弱そうな、このボロ家と同じくみすぼらしいその青年はやっぱり脚をやや引きずり気味にこちらへと向かってくる。そんな青年の事なんぞは無視して、ハイドラは壁に貼られた絵達を見つめた。彼の作品であろうか――おおよそ、自分には芸術的センスというものが皆無に近いのでそれらが上手いのか下手なのか判別はつかない。

 言ってしまえば只色んな絵具を白い紙の上にぶちまけているだけにしか見えない。芸術なんて言うのは本人たちにしか理解できないものなんだろう、これを上手いか下手かで判断するのは何ともお門違いの様な気がした。

「だ、だ・大丈夫?」
「何が」
「はい。……か、か、身体」
「……」

 青年はこちらと話す時決して目を合わせようとしない。目が合えばすぐに逸らして、下へ下へと行きがちになる。そしてその視線にも、何かたどたどしいものが感じられた。人と話し慣れていないのはすぐに分かった。ハイドラも、以前はそうであったようにそれがすぐに察知できた。

 狭い、納屋の様なこの家の中の住人はどうやら青年だけでは無いらしい。数匹の猫やら犬が先程からこの中を行き交っている。居着いた野良猫かと思いきや、青年の周りを歩き回る辺り彼が飼っているのだと思った。

 茶色と黒毛のブチ猫が一匹、トコトコとやってくる。猫はこちらをじっと見つめた後、くわっと口を開けた。それはほとんど消え入りそうな、いやはや鳴き声とも呼べない音がちょっと漏れた。それで気付いた。

「……この猫、まさか」

 ハイドラがぽつりと呟くと、青年は顔を上げて猫を見た。

「は、はい。そそそその子、鳴けない……ここ・声が、出ない」
「……舌が?」

 青年は何度も忙しなく頷いた。

「の、のの野良猫だったんだけど。わ、わわ・悪い人間に虐められて……」

 よく見たらここにいる犬猫は、皆どこかしらの部位が傷ついているんじゃないんだろうか。耳が片方無い犬や、歩き方のおかしな猫もいる。

「はい。そ、その子はシルビア」

 聞いてもいないのに、突然のように青年が話し始める。
 ハイドラが視線を動かすと、彼は隅の方で丸くなって眠っている猫を指差していた。

「か、かか・飼い主に虐められて、そ・それで、捨てられた。だ、だから、ににに人間が、信じられない。お、俺の事も、ま・まだ怖がる」
「……」
「そ、そ、そっちの柴犬は、リュンヌという」

 そして、大人しく腰を降ろしたままのその柴犬は、ざっくりと右の耳が無い。

「はい。りっ、リュンヌは、フランス語で、つ、月を意味します。つつつ・月のきき綺麗な夜にその子をひ、拾ったから、そそ、そう名づけた」

 喋りだす時にはい、と付ける事で青年は言いたい事を整理しているんだろう。

「それも人間にやられたか?」

 ハイドラが餌を食べている柴犬の耳を顎でしゃくりながら尋ねた。青年はやはり目は合わせないように、伏せたままの視線でうんうんと何度も肯定の仕草を取る。

「りゅ、リュンヌも、かかか・飼い主に、い、虐められた。お、大人しい子、だったのに、っひひ・人に噛みつくようになった。お、俺もたまに、かか・噛まれそうになる」

 ずずっ、と鼻を啜った後、青年が膝をぎゅっと抱き寄せた。

 その常に半開きの口元といい、きょろきょろと探るように動く視線といい、顔立ちそのものは平凡で素朴などこにでもあるような感じなのだが青年は何故か独特とした佇まいと雰囲気を持っていた。

「はい。そ、そこにいるのは、フィーア。な、なな・何故、フィーアかと言うと、よよよ四番目に拾った子だから、フィ、フィーアはドイツ語で、よ、四を指すので」
「もういい。いい加減、気分が悪くなる」

 言われた通りに青年はそれ以上何も話さなくなった。

「それよりも」

 さっきから、ずっと気になっていた事を確かめたい――ハイドラは起こしていた上半身を、再びベッドに沈ませながら尋ねる。

「何故僕を助ける。お前、僕が何者なのか知らないのか」
「し、知らない」
「だろうね。テレビも無いこのボロ屋じゃあ、ろくな事は分からないだろうな……つまりお前は世界に取り残されたあわれな奴……この世界の支配者である僕を助ける事となるとはね」

 と言ったところで青年にはピンとくるはずもない。特に動じたような様子もなく、青年は只ぼんやりとこちらを見るだけである。今のこの状況が分からないというよりは、ハイドラの言った言葉そのままを理解していない、そんな感じであった。

「ふん、コレを見て何も思わないのか、お前は」

 ハイドラは腰に下がっていた自称『ペット』の頭を掴んで青年に見せつけた。ペットは相変わらず、もう精神もすっかり蝕まれてしまったのか「うー」とか「あー」とかなりそこないの言語を発しているのみであった。幼児退行を起こしたのかもしれない、と思ったが、もはやどうでも良かった。

 青年は瞬間だけぎょっとして見せたが、すぐにまた視線を動かしたかと思うとそのまま下降させていった。

「今世界がどんな状態かぐらいは知ってるんだろ? そのクソラジオのお陰か分からんが」
「し、し・知ってる」

 そこはきちんと理解しているようで、青年は俯いたまま何も言わなくなった。

「クヒヒ。地中からは死者が甦り、生きている人間に食らいつくんだ。噛まれた人間もまた仲間入りさ。どーだー、恐ろしいだろう〜? ションベンちびりそうだろ〜?」

 煽り立てるように言ってみても、青年はやはり視線を伏せたまま何も答えない。

「こんな世の中に誰がしたってか!?……勿論、答えは僕だよっ。ヒヒッ。どおせ元から腐った人間が多かったんだ、腐った死体が増えた所でそう変わりはしないよな。よな、よな? なあ〜アンタ。どうだい、僕を助けた事後悔するかい? するよなあ〜メチャするよなあ〜!」
「しない」
「あ?」

 確かに青年はそう言った。淀みなく、そう言った。

「はい。け、怪我してる人、放っておくの、よよ、良くない、おばあちゃんが言ってた」
「はぁあ!? おン前、話全然聞いてないねえ!」
「はい。こ、ここ、困ってる人見過ごすの良くない……こ、こ、こういう時はお、お、お互い様だってばあちゃんいつも言う……」
「……」

 そんな台詞を聞きながら、ハイドラは即座に思った。何言ってんだコイツ、アホか、と。自分があの教室の隅っこでいじめられている時にそんな言葉をかけて助けてくれる人間が一人でもいたか? 無論いなかった。……だからこそ日々どす黒い感情は溜まって行く一方であった。思い出したくもない、思い出したくもない、忌々しい。

「お、お、俺……」
「?」
「う、生まれてからすぐ、それまで俺を育ててくれたお父ちゃんが死んでしまって、つまり、俺の面倒を見てくれたのが、お父ちゃんとおばあちゃんと、おねえちゃんとおにいちゃんとあといっぱいいて……」

 兄妹が沢山いる、という事だろうか。母親の名前はそこには出てこなかったがそれはまた随分と盛んな両親だ、ナントカダディもかくやの……等と思ってしまうのだが、ハイドラは何も言わないで先の言葉を待った。

「で・で・でも、ナツミお兄ちゃんもお姉ちゃんも、サヨコもヒサヤもみんなそれぞれに自分の生活があるから、だから、俺一人の世話をするのは大変難しいと言ったので、お、おばあちゃんが俺を引き取って面倒を見てくれるんだと教えていただいたので、俺はここで暮らしをすると決めた」

 そう話す青年の背後にその祖母と思われる薄汚れた古臭い写真が飾ってあるのに気がついた。古ぼけた写真立ての傍ら、空き缶に入ったまだ新鮮な野花が添えてあった。……ああ、そうか、もうこの世には――とハイドラが思った。

「はい。そ、それで、お、俺は、おばあちゃんに『自立しなさい』と言われたので、おお・俺が自立しなきゃ、と思ったのは、おばあちゃんの言う事をよく聞くという事でした。それで、お、おばあちゃんが、めめ・目の前で困ってる人がいたら絶対に、た・助けなさいって」
「ッッッへー。それがどんな大罪人でも助けろってのか、ん? そいつが何百人もの人間を殺した殺人鬼でもか。何億円の金を強奪した強盗でもか。女子ども構わず犯しまくった強姦魔でもか。ハッハー、そりゃ面白い、傑作だね! 貴様みたいな自己欺瞞の権化は見ていて哀れになるぜ、お前みたいなのを偽善者っていうんだよ。なぁ!?」

 その言葉を、青年が大よそ理解したとは思いがたい。そういう確信があって、自分も言ったのかもしれない。

「でで・でも、見捨てるの、きっと良くない。……な、何もしないよりずっといい……」

 相変わらずたどたどしい口調ではあったが青年ははっきりとそう告げるのだった。――ハイドラは……いや、この感情はハイドラと言うよりはかつての自分のものに近い。心のうちで、聞こえぬように深く溜息を吐いた。こいつは、たぶん、きっと……そうだ。もし、自分――山尾の時だった自分のように、山科に酷いイジメを受けていたとする。そして、その自分を酷く虐めていた相手が目の前で倒れていたとしても同じ事が言えるのだろうか? 深々と考えているうちにハイドラは、否、山尾はくぐもった声と共にため息を漏らしたのだった。

「――おめでたい野郎だなァ。いいぜ、記念に名前を僕の脳裏に刻んでやる。おい、名前を教えろよ、このクソ偽善ヤローめ」
「はい。ち、ちち・千早……」
「そうかい、そうかい。はーっきり覚えたぞ。僕は多分一生忘れる事は無いな、このクッソ馬鹿野郎の事を」

 あざけるように言って笑うが、千早は全く動じる事も無くやはり視線を落したままの状態を保ち続けている。こいつは見た目より案外肝が据わっているのかもしれない――、ハイドラはある意味で感心しながら彼を見つめた。

「ちょ、ちょっと待って」

 言うなり千早はその場から立ち上がると奥へと行ってしまった。しばらくそこで何かやっていたようだがすぐに戻ってきた。

「ご、ご飯……」
「はぁあああ!? 僕がそんなエサになびくとでも思ってんのかよスカタン」
「はい。いらないなら、いい……一人で食べる」

 そう言って千早は面積の狭い、そんなに物も置けないテーブルの上に運んできた食事を並べ始めた。湯気の立ち込める味噌汁や焚き立ての御飯の匂いが忘れかけていた食欲を刺激する。

「……た、食べないなどとは。言ってないんじゃないのかな〜」
「はい。じゃ・じゃあ、並べておく」

 千早は文句ひとつ言わずに黙々とその狭いテーブルの上に食事を並べていく。そんな姿もまた堂々としているように映るのだから不思議だった。


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