#8-1


「ねえ葉月、ちょっといい?」

 横山由里(よこやま・ゆり)は、忙しなく身支度をしながら娘の名を呼んだ。娘は眠たそうな顔でそれに応じ、相反するようにのんびりとした手つきで冷凍のクロワッサンを口に運ぶ。

「今日お母さん、帰るの夜の十時くらいになるし……お金預けとくから、鳥丸の弁当かマックでも好きなもの食べといてくれっかなぁ」
「おかーさん、パン、まだこれ冷たいよぉー。シャリってゆったしー……」
「ええ、ウソ!? ちゃんとレンチンしたけどなぁ、えー、まさかもう故障……ああっ、もうこんな時に誰よ……ハイ、もしもし!?……え、なに、福沢君。今出るところだから、……後じゃダメ!?」
「お母さん、お父さんのお仏壇にちーんしないのぉ?」
「……何!? 聞こえない、もお。そっち駅でしょー? 電車の音で全然聞こえないわよっ、後にして!」
「…………」

 葉月はそこでようやく、諦観したように大げさに溜息を吐く。当然、ささやかなその反抗も無視されるだけで何の意味もなさないのだが。由里は黒のトートバッグにクリアファイルやペットボトル、ペンケースや手帳類を詰め込みながら、騒々しさを纏いリビングを颯爽と……とは、少し違うか……ともかくまあ、やかましげに出ていく。
 訪れた静けさの後には、五千円札が一枚だけリビングのテーブルにぽつりと残されている。葉月はそれを手にしてから、父の遺影が飾られた小さな仏壇をちらと見た。

「今日も、でしょ……」

 心なしか、父の写真も、紙幣に載せられた樋口一葉の顔も、どちらも寂しそうに映って見えるのは葉月の心の目が、そう脳みそに信号を送っているのかもしれない。

だとしたら。

 私は今、とっても寂しい女の子なんだ。認めたくはないけれど。葉月はもう一度溜息を吐いて、そしてそれは誰にも拾われる事もなく、空の朝食の皿の上に落ちていった。

 由里の移動手段は基本、自家用車だった。記者という職業柄、電車では不便の一言に尽きる。由里は軽のトールワゴンに乗り込むと、エンジンをかけ、とっとと自宅を後にする。ほぼほぼ毎朝こんな形で、まさしく息つく間もないといった具合だった。由里自身、それに気付ける暇もない。向かいの犬に野太い声で吠えられるがいつもの事なので無視をする。それ程までに鬼気迫った表情なのだろうか、今の自分は。

「……えっ、と……」

 小体な神社の角を曲がり、およそ10メートルほどの狭い道を抜けて目印の赤茶けた郵便ポストを視界に入れる。左折し、由里は片手でゼリー状のエネルギードリンクを飲みながらもう片方の手でハンドルを切る。

 適当な駐車場にいったん車を停め、後ろの座席に眠っているノートパソコンを引っ張り出した。眠っている、とは言ってもほぼ毎日職場では使うものだし電池は十分にある。由里はパソコンを立ち上げるとUSBメモリを差し込んでモニタに向き直る。

 溜め込んであった情報をロックを開き開示すると、たちまち液晶に姿を見せたのは小さな顔と、華奢な身体つき。制服姿の、一人の大人びた少女だった。この年齢にして、既に仕上がった美人である。薄めの唇に細い鼻梁、白人のように透き通った肌。同性の自分の目から見ても美しい――いや、それだけでなく、聡明さと知性を兼ね備えた不思議な少女だった。

『佐竹櫻子』

 サタケサクラコ。由里が掴んだ情報では、ここいら一帯に最近流行りだしたドラッグの流通経路の大元が彼女の繋がるのではないか――ということ。
 この街にはアホのように売人がいるのを知っていたし、そのどれも警察にしょっぴかれてはいくのだが街にはドラッグが消えてくれる様子はまるでないのだ。初めは、死ぬのを覚悟で警察をヤクザが応酬しているのではないかと疑った。

 乗り込んだ先では、場所が悪かったのか「そんな事実は一切ない」の一言で切り返され行き詰っている。――と、そんな時だった。娘の葉月が、テストの結果に伸び悩んでいるから、家庭教師が欲しい、などと言いだした。

 正直言ってそんな余裕もないが、勉強嫌いの葉月がそんな事を言うなんて――と由里は目を丸くした。おまけに、教えてくれる相手は決まっているのだと言う。更には無料で良い、とまでの言葉を添えて。

「櫻子さん。どう? 綺麗でしょ〜」

 そういう台詞は普通、母親じゃなく父親にでも吐きなさい――と思い、つい数か月前、父が肝硬変で亡くなった事が頭をよぎる。病気が発覚してからというもの、父・武夫の死は本当にあっというものだった。あまりにもあっけなさすぎた。同じ病気で助かる人は大勢いる。なのに、何故?――由里は担当の医師に問い詰めた。

 医師はススキのような体系の、面長で優しそうな、少し意地悪な言い方をすれば神経質そうな感じのする……五十代に届くかそうでないかくらいの中年だ。

「――横山さんの場合、少し特殊でして……肝硬変は肝硬変でも、B型肝炎というものです。少し前にあった、注射器の使いまわしによって菌を持った方が爆発的に蔓延したんです」
「……そんな事、聞かされたこと……」
「だってそれは、言いづらいでしょうね。ですが、この注射器の使いまわしによる感染者は給付金を受け取る資格がありますし、国からの保障も受けられまして……」

 その後の話は、正直あまり聞いていなかった。或いは、この耳がそれを聞くのを拒否したのか――、死んだ後の話なんか、聞きたくもない。

 由里はベッドに点滴を打ったまま横になっている夫・武夫の様子を見に病室へと足を動かす。どうしてそんな大事な事言ってくれなかったの。家族の問題じゃない。叱り飛ばすつもりが、やはりベッドで苦しそうにしている武夫の顔を見ると、胸が詰まって何も言えなくなった。

 武夫とは、趣味でやっていたテニスサークルで互いに二十代の時に知り合った。今どき珍しい、自然恋愛で成就した結婚の末、すぐに一人娘の葉月を授かった。そして武夫が四十の台に乗ったその時、病が発覚する。元々、異常なまでの酒飲みだったのもあり病魔の進行を早めていたのもあった。初めは腹が出てきた、くらいにしか見ていなかったものの微熱が続き、町医者で処方された薬を飲んでも何も改善せず、異様に腹部ばかりがぶくぶくと膨らんでいく。初めは「酒と塩分ばっかで、メタボじゃないの」と軽く笑っていたものの、他の医療機関では腹水の可能性が高いと指摘され、総合病院への紹介状を貰った。

 結果として、今のような状態がここにある。まだ働き盛りの武夫は悔しがって毎晩泣きべそを漏らしていた。しかし、葉月が見舞いに来ればいつもの明るい父の姿を気丈にも保とうとしていた。――肝硬変……多くは肝臓がんへと転移してしまうケース、もしくは完治できずにそのまま死に至るケース。……いずれにせよ、簡単なものではなかった。

 食べたものが全て栄養にならず、日に日に身体は細くなり、小さくなっていく武夫の姿を見るのは胸に釘でも刺されたように、打ちひしがれんばかりの思いだった。葉月もきっと同じ思いだったろう。けれど、葉月は変わらないように接する。元気だったころの父親と変わらない頃と同じように、気丈に振舞う。

「櫻子さん、っていう人と最近仲良くなったんだ」

 思えば、櫻子の名はこの時からぽつりぽつりと呟いていた。

「私より少し上の、高校生。テニスを教えてくれたんだ、私が強くなったらお父さんと今度勝負できるね。それに櫻子さんも強いんだよ。でも、部活には入らないんだって」
「一体、どこで知り合うんだ? そんな上の人と」
「えー、それは女の子同士の秘密!」

 思えばここでもっと掘り下げるべきだったのだ。
 それから武夫は、数日後に今夜が山場だろうと淡々と告げられ、痛み止めを打ち、眠るように亡くなった。眼球はほとんど上の方へ向いていて、生きているようにしか見えなかった。奇跡なんてないことを、痛い程に思い知らされた。

 夫が魂の抜けた、ヒトの形をした何かになってしまったのを見せつけられているようで、内臓を全て絞り出されたように全身に力が入らなかった。

 家で待っていた葉月は、父の死を聞いて、しばらく呆然とし、それから大きな声を出して子どものように――いや、事実、子どもだが――クッションに顔を沈めて泣いていた。



肝硬変もね、肝臓がんもね…つらいんだよ。
警察官でキャリア組でエリート、体も大きかった祖父。
その身体が半分以下にまで小さくなって、
母は肝臓にはシジミのみそ汁がいいからと毎日毎日
作っていたけど、やっぱり進行は止められなくて
祖父は真っ黒の吐しゃ物(ほとんど血だろう)を
吐いて、もう会話はできませんけど、いいですか、って
医師の判断の元人工呼吸器をつけた。でも祖父はそれを拒否した。
家族と最後まで話したいからと。最後は「痛み止めを増やしましょうか」
(日本では安楽死はできないので、こういう感じで聞いてきて
意識が無くなってもいいかどうかの質問を聞かれる)
見ていて耐えられなくて私は「もう見ていられない打ってください」と泣きながら言い、
でも母は最期の最後までどんな形でもいいから父と話したい。
祖母は泣いてその場に崩れるだけで只祖父が生前好きだった頭の
マッサージを続けてた。母は父の名を呼び続け、ありがとう、ごめんなさい、を繰り返してて
それで、鎮痛剤をさして祖父はうっすら目を開けたまま逝った。
もうほとんど苦しみは無かったと思いますよ、って意思の言葉が救いだった。


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