ゾンビまみれの世界で拾われた燭台切の話 | ナノ

二話


 とても何かを落とした、だとかそういうレベルではなく、例えるならば建物の一部が崩壊するような、日常生活では中々聞かない大きな音だった。何があったのか、と燭台切は本体に手を掛けて構える。

「……何かあったのかな」
「あ、あー……」

 目を細める燭台切の横で、その音を聞いた彼女は顔をぴくぴくと引き攣らせている。その表情から察するに、どう考えても何か悪い事態が起こっているようだった。
 数瞬の間を置いて、彼女は大きく口を開けて笑った。

「あはあ来ちゃった! ここには入れないと思ってたのにな……ほらお兄さん、そんな驚いてる場合じゃないですよ! こっちこっち!」
「……あの、そもそも一体どういう状況なんだい?」
「……もしかして記憶喪失とか? まあ今はとにかくこの穴から逃げましょう」

 彼女はここで初めて顔をしかめた。どうやら燭台切の様子が何かおかしいということに気がついたようだ。
 混乱する頭を全力で回転させながら、燭台切は状況を理解しようとする。どこか様子がおかしい得体の知れない人間に手招きされながら、改めて、今己がいた場所を見渡した。
 ――崩壊した廃ビル、という言葉以外当てはまらない、小汚い建物の中にいるようだ。己は厳重に政府に保管されていたはずである。なのになぜこのような場所で顕現したのか、とんと検討もつかない。もしかしたら誰かがここに持ち運んできたのだろうか。それにしては何か違和感がある。
 燭台切が考え込んでいる間に、女が彼の手を引く。

「お兄さんお兄さん、早く逃げないと! あいつら、たまにですけど走る個体もいますよ。まあ、瓦礫まみれですしそうそうは追ってこれないと思いますけど」

 そして今は『何か』から逃げている状況であるらしい――目の前の人間の言葉を信じるならば、だが。どうしたものか判断しかねるが、ここがどこかもわからない状況である。とりあえず出口を知っていそうな人間と外に出るだけならば問題はないだろう、と判断して、燭台切は頷く。

「あ、ああ、今行くよ……あ――」

 しかし燭台切は思わず足を止めてしまった。己の身一振りで外に出るのはまずい、と気がついたのだ。せめて己が保管されていた箱だけは持っていかなければならない。あの中には手入れ道具も入っているはずだ、それは即ち己にとっての生命線といえる。
 辺りを見渡して、目当てのモノを見つけて腕を伸ばした瞬間に――燭台切は見てしまった。ビルの瓦礫の隙間から、こちらに向かってきている『それ』を直視してしまったのだ。

(なんだ、あれは……?)

 灰色のような、紫のような、緑のような――とても直視できない色をした、腐っているであろう大きな肉の塊が、瓦礫の向こうで蠢いている。
 よく見てみれば、それには3、4本ほど棒状の肉も付いている。それらを必死に動かしては、ぐじゅり、ぐじゅり、と音を立てながら、『それ』はこちらに這い寄ってきていることがわかった。
 腐った肉塊の表面がずるり、と剥けるところを見た。まるで溶けたかのように、ぼとりとその表面の皮が次々と落ちていた。むき出しになった肉は、一部は表面と同じく緑や紫などの奇妙な色合いだったが、抉れたことで見えてしまった内部は不快なまでに赤黒く、ところどころに黄色い粒のようなゲル状のものが付着している。
 そして肉塊の上部には黄色く濁った球状の何か埋まっており、見るものを不安にさせるような、ぎょろぎょろとした不規則な動きを見せていた。

 落ちた肉の一部――あれは、皮だ。どうしてそれを皮と認識してしまったのかは、きっと本能がその正体をわかっていたからだろう。あの動く肉塊に付いている棒状の肉は手足で、落ちた表面は皮膚で、今こちらを見ている小さな球は眼球だ。

 あれはどう見ても、人間の、亡骸が――

「危ない!」

 ピシュ、という聞き慣れないごく小さな音と、いつの間にか近くに迫っていた肉塊が崩れ落ちる音がした。――そこで、燭台切は我に返る。

「何ぼーっとしてんの!? 死ぬ気か!? 自殺志望者だったんですか!?」

 どこから取り出したのだろうか、何やら奇妙なモノ――確かサイレンサーというものだったという記憶があった――が付いたハンドガンを構えた人間が、燭台切の横に戻ってきていた。彼女は怒りと困惑が入り混じった複雑な表情を浮かべているが、それ以上に非常にどこか心配そうな様子もある。女は燭台切の腕を強く引いた。

「ほら、さっさと逃げましょう! ……なんでそんな初めて見ました、みたいな顔をしてるんですか」
「あ、ああ……」

 燭台切は生返事をしながら、目の前の状況があまりに非現実的すぎて言葉を失っていた。
 自分たち付喪神も、人間からしたら非現実的な存在であるという自覚はある。付喪神は普通の人間にはその存在を感知することさえ叶わず、こうして特別な力を使わない限り人のかたちをとって顕現して人と会話を交わすことすらないのだから。しかしその非現実的の塊のような存在の自分たちからしても――この目の前の状況をすぐに理解できるような仲間はいないだろう。
 屍が、動いている。
 崩れた瓦礫の向こう、薄汚れた灰色の狭い廊下には、明らかに死者である人間が動いている。あれはどうみてもただの遺骸のはずだ。否、そうでなくてはならない。
 しかしあれらは、何故か自立して、自らの意志で動いているらしかった。
 呆然とする燭台切に、彼女は再度声を掛ける。

「お兄さん、歩けますか、ちゃんと足動きます?」
「……あれは、人間、なのかい?」
「……えー。……やっぱり、本当に記憶喪失?」

 人間は訝しげに燭台切に問うてくる。眉間に皺を作り、不安そうな目で燭台切を見ながら、一瞬間をおいてしっかりとした声色で言い放つ。

「――ヒトではないですよ、もう。分類するとしたら、元・ヒトってくくりになるでしょうね」

 多分ですけど、と彼女は付け加えながら歩を進める。

「とにかく外に行きましょう。表に車が止めてあるから、それに乗ってしまえば大丈夫です、逃げられます。あいつら、流石に車に追いつけるほどの脚力はありません」

 その言葉にただ頷いて、燭台切は本体が保管されていた箱を手にとって抱えた。
 彼女は瓦礫を軽く飛び越えながら、廃ビルを駆けていく。燭台切も後に続いて走った。

「それ、すごく大事なものなんですか?」

 彼女は燭台切の先を行きながら、彼が取りに戻った本体が入っていた箱のあたりにちらりと視線を寄越して口を開いた。

「ああ、とても大事なものなんだ。僕の命みたいなモノかな」
「なるほど、それは大事ですね」

 そりゃ戻らないと、と彼女は困ったように笑う。馬鹿にしているような笑みではなく、仕方ないな、という感情が滲み出ているものだった。
 狭い廊下をあっという間に駆け抜けて、彼女はふう、と一つ息を吐いた。

「ここを左に曲がれば、あと少しで出られます。……あいつらが反対側から入ってきたなら、このへんにはいないはず、だから大丈夫、大丈夫……」

 彼女は自分自身に言い聞かせるように言う。燭台切は頷くと、彼女に続いて曲がり角を曲がった。――その次の瞬間に、燭台切は背後から微かに何かが動く音を聞いた。
 ぐじゃり、という湿った不快な足音とともに、地を這うようなおぞましい声が近づいてくる。彼女の耳がその音を拾ったのは、燭台切よりも一拍遅れてのことだった。

「ッ――! し、しまっ」

 人間が振り向き、ハンドガンを構えようとする。しかし銃口を向けるよりも前に、死体は綺麗に真っ二つにされていた。
 ぐじゃ、という肉が潰れる音が聞こえる。斬られたての肉の塊が2つ、床に転がっていた。

「……? ……あれー?」
「――なるほど、確かにこれはもう“人間”じゃないね」

 燭台切はひゅ、と一度己が本体――太刀を振るって、刀身に付着した血と、腐った肉片を払い落とす。
 おぞましい唸り声を上げながら襲ってくる屍を斬った瞬間、まるで獣を斬っているかのような感覚に陥った。もしくは、ただの肉塊だろうか。どちらにせよ、生きた人間を斬っているという感覚は無かった。
 燭台切はため息を吐いて、払いきれなかった刀身の血を己の装束の袖で拭う。あのようなおぞましい存在を斬るのは、あまり気持ちのいいものではない。
 ややあって、どうやら燭台切が死体を斬ったらしいということを理解した人間が、燭台切の背後で小さく手を叩いていた。

「ひゅ、ヒューーーッ……やるぅ……」
「他はいないみたいだね。急いだほうがいいかな?」
「そうですね、ありがとうございます、助かりました! お兄さん、侍さんみたいな感じだったんですか? いいですね、燕尾服に刀、おまけに眼帯。ものすごくかっこいいですよ。惚れそうでした」
「……ありがとう」

 少し複雑な気持ちになって、燭台切は曖昧に笑って返した。

「ま、それはともかく逃げましょう。ここには一体しかいないみたいですが、外にはまだまだいますからね。追いつかれたら困りますし行きましょう!」

 人間は薄暗い廃ビルには不釣り合いなほどに明るくわらって、燭台切とともに駆け出した。

 ◆

 ――僕は背後を振り返る。僕らの背後からは、無数の『彼ら』が食糧を――僕らを目掛けて追ってきていた。彼女曰く、彼らはまだ新鮮な肉を求めて人間を食べるらしい。
 彼女がハンヴィー――軍用車、と彼女は言っていた――のアクセルを踏み込むと、その姿が一気に遠ざかっていく。それでもまだ追ってくる個体がいたけど、その姿はあっという間に小さくなって、やがて見えなくなった。僕は何とも言えない気持ちでため息を吐く。

「あはあ、これMTじゃなくてホントよかったなー。そっちの免許も持ってるけど、教習以来乗ってないから運転の仕方なんてほとんど忘れちゃいましたし」
「……それは、幸運だったね」
「本当はこういう事態になったときのためにどんな車でも乗りこなせないと生き残れない! と思ったからMT取ったんですけどね。まさか軍用車がATだなんて知らなかった……近頃は軽トラだってAT……!」
「こういう事態を想定していたのかい?」
「いやあ、流石にフィクションの世界だけで充分ですよぉ。偶然偶然」

 笑う彼女を横目に、僕は窓越しに外の世界を見る。ものすごい勢いで流れていく景色の中、誰か正常な人間はいないのかと目を凝らして探してみた。しかし、どこを見ても不健康そうな肌の死者しか歩いていなかった。本当にどうしてこうなってしまったのか、と小さくため息をつくと、同じタイミングで彼女も大きくため息をついた。

「はあああ〜、どこに逃げようかな……行く先々が死に支配されてるんですよね……お兄さん、どこかアテはないですか」
「……僕は記憶喪失だからね、思い浮かばないかな」
「そうだった。記憶喪失の執事侍でした」
「もうそれでいいよ」
「ううーん段々返事が雑になってきた! お疲れですか! じゃあまあ、ゾンビもののお約束的な感じでショッピングモールにでも行きますか」

 彼女が目の前に出てきた死体を轢き殺しながら――すでに死んでいるので、殺したというのは語弊があるだろうか。とにかく力技で死体を圧し潰していきながら、僕に笑いかけてくる。

「まあ多分、人間二人いればちゃんと生きていけますよね! 私は運転手兼ガンナー、お兄さんはアタッカー侍! あとはとりあえず食糧を調達しつつ料理なんてできたらもう最高です!」
「――そうだね、料理は好きかな。結構得意だよ」
「やったあ、こんな世界でもおいしいごはんがあればハッピー! 生きてるって素晴らしい!」

 彼女は無邪気に笑う。こんな荒みきった世界には似合わない、心の底から楽しそうな笑顔だった。もしかしたら無理をしているのだろうか。むしろそうであってほしかった。こんな世界で心底楽しいといった風に笑われても逆に困るからね。

「そういえばさっき聞きそびれましたけど、お兄さんのお名前は?」
「僕の名前は……燭台切光忠だよ」
「そっか、光忠さん。かっこいい名前ですね。これからどうぞよろしくお願いします」

「まあ私たちにこれからがあるのかすらわからないんですけどね!」と彼女が笑う。本当に、なんて世界で顕現してしまったんだろう。もしかして、他の刀もこんな目に合っているのだろうか。この世界に、まだ政府は、審神者は存在しているのだろうか?
 僕は窓の向こうの崩れた日本家屋を見ながら、何度目かのため息を吐く。――これなら、いっそ折れたほうが幸せな世界かもしれない、なんて考えてしまったけど、起きてしまったのなら仕方がない。少しの間は、頑張って彼女と生きてみようと思う。
 そう考えた数時間後にまたたくさんの死体に追われることになったりするわけだけど、今の僕はそれを知る由もなかった。



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