四話
 世界が変わったような気がした。雨空が晴れ渡るように、濁った川の水が澄んでいくように。なまえにとって、今までの景色がすべて違って見えた。
 カカシに会って気持ちを伝えられた事の喜びが、体中を満たしてくれる。
 会えて、話が出来て、隣を歩けた。過去に怖いと思った仮面の下は、のんびりとした口調の優しい男だった。
 何を思い出しても燦然と輝いて見える。なまえにとってカカシは、まるでヒーローのようだった。

「なまえ、何かいいことでもあったの」
 任務の後、他の二人が帰った後でタツキがなまえを呼び止めた。
 なまえは笑顔で返事をすると、にこにこと一人で思い出し笑いをした。
「フフフ、何だよもう。気味が悪いなぁ」
 タツキはにこにこするなまえを見て嬉しそうに言った。
「なまえが笑うようになって良かったよ。友達でも出来たの?」
「うーん……友達ではないけど」
 曖昧に答えると、タツキは不思議そうになまえを見つめた。
「心配だったんだよ。お母さんの事があってから……なまえは塞ぎ込んでたように見えたからね」
「あ……ごめんなさい……」
「謝る事ないよ」
 相変わらずとても優しい口調でタツキはなまえを気遣った。
 近くの食事処を指さすと、なまえについてくるように言う。言われるがまま、なまえはタツキの後を追った。
「好きなの頼んで」
 綺麗に整った顔で微笑まれ、なまえは少しだけその笑顔に見惚れてしまった。
 孤児院での質素な食事に慣れているせいか、こうして時々タツキが奢ってくれる食事がとても美味しく感じた。
 すべて綺麗に食べ終えて礼をする。最後にデザートのアイスが運ばれてきた。女の子にとってとてつもなく嬉しいサプライズだった。
 ひんやりとした食感を味わっていると、
「なまえ。オレに言うことない?」
 突然振られた話に、きょとんとした表情を返す。
「カカシさんの事」
「っ、ゲホッ」
 飲み込み切れなかった最後の一口のアイスが気管に入って咽る。やっと治まった頃に、上目遣いでタツキを見た。
「……先生、知っていたんですか」
「あのねぇ……有名だよ。もう」
 困ったように息を落とすと、タツキはなまえを真っ直ぐに見つめた。
「どうして付きまとうの。カカシさん困ってたよ」
「……」
 唇を尖らせると、なまえは俯いた。
 あれからなまえは時間があるとカカシを探しに出かけた。行先はもちろん任務待機所で、カカシが居ても居なくても居座るようになった。
「他の上忍にからかわれてるんだって? カカシさんの忠犬って」
 ボンッとなまえの顔が赤くなる。黒い尻尾の、カカシ専属の忠犬――なまえにはいつの間にか異名がついていた。
 勿論悪い気なんてしなかった――のは、なまえだけだったが。
「はぁ……もうオレ、カカシさんに顔向けできないよ」
 目の前で組んだ手に額を乗せると、重い空気を纏いタツキが項垂れる。流石にこれはまずいと思い、なまえは慌てふためいた。
「せ、先生。ごめんなさい……。でも、ちゃんと許可は取ってるんです」
「……誰に」
 少し尖った返事に、なまえは更に慌てた。
「えっと、アスマさんとか紅さんとか……あと、私の事忠犬って呼ぶような方には……あの……面白いから来てもいいよって……」
 言葉にしてみると、なんだか物凄く恥ずかしかった。それにこれが許可といえるのかどうか。
 待機所にはタツキも行くことがあるだろうに、なまえのせいで行きにくくなってしまったのだろうか。
「先生……ごめんなさい」
 もう一度謝ると、なまえはタツキの様子を窺った。
 ゆっくり顔を上げたタツキは、大げさにため息を吐いて見せると、困ったように笑った。
「あんまり行かない事。他の人達の邪魔にならない事。特にカカシさんに迷惑をかけない事。分かった?」
「……っ、はい!」
「困った子だね、なまえ」
 あぁ、本当に犬みたいだ、なんてなまえの笑顔を見てタツキは思った。そんなにカカシの事がいいのかと思うと、少し羨ましくなった。
「あのねぇ。なまえの担当上忍はオレなんだからね」
「勿論です!」
 意味分かってるのかなぁ……タツキは伝票を持って立ち上がった。
 いつものように支払いをしようとするなまえを制すると、外で待つように言う。店を出ると機嫌のいい顔でなまえがタツキを待っていた。
「先生も待機所で任務待ちとかするんですか?」
「オレはなまえ達の事があるからね。まずはそっちが優先だから、最近は頻繁に任務は回ってこないよ」
「へぇ、そうなんだぁ」
 揺れる黒い髪からふわりと花の香りがした。
 今まではそんな事なかったのに――。

 なまえがカカシに付き纏っている――という噂がタツキの耳に入ったのは三週間ほど前だった。
「お前の担当してる下忍、カカシさんに付き纏ってるぜ」
 廊下ですれ違いざまに面白そうに報告してきた友人に詳しい話を聞く。最後まで聞き終えて、タツキは真っ青になった。
「(何で……よりによってカカシさんに……)」
 急いで待機所へ向かう。中へ入ると、そこにはもうなまえは居なかった。
 代わりにタツキの視界に飛び込んできたのは件の一番の被害者カカシだった。隣に紅も座っていた。
「カカシさん」
「ん〜?」
 気のない返事をしたカカシは、視線を上げなかった。カカシにしてみたら、部屋に入ってくる前から誰なのか分かっているからだろう。
「すみません。オレの部下が迷惑かけているみたいで」
「あぁ。あの子の事ね……」
 読んでいた本をパタンと閉じると。やっとタツキの方を向いた。
「本当にすみません。オレ知らなくて。まさかあれ以来カカシさんに付き纏ってるなんて……」
「いーのよタツキ。カカシねぇ、結構面白がってるから」
「おい、勘弁してよ。面白がった事なんて一度もないからね、オレは」
 紅の言葉をゆったりと否定した。カカシは目の前で頭を下げるタツキを見た。
「いやまぁ、ね。正直困ってるよ、ホント。なーんでオレに付き纏うかね、あの子は。というか頭上げていいよ」
 タツキは頭を上げると、心底申し訳なさそうな顔をした。
「キツく言っておきます。もう二度とここへ来ないように」
「えー、それじゃつまらないんだけど。大丈夫よ、みんなで可愛がってるから。なまえの事」
 紅が口を挟む。タツキにとっては紅も上司であるため、言い返せない。しかし、ダメなのだ、ここはカカシの意見を通さねばならない。
「紅さん。部下を可愛がっていただいて、本当にありがとうございます。ですが、今回ばかりは……」
 タツキの返答に紅がむくれた顔をする。うぁ、とたじろいだ所で背後から盛大に扉の開く音がした。壊れでもしたんじゃないかというくらいの勢だ。
「そうだ! 熱い気持ちをぶつけてくる者に冷たくするなんて酷いぞカカシ!!」
「はぁぁ……」
 カカシは額に手を当てると俯いた。最近で一番困っているのは、むしろなまえの事よりもこうしてガイがなまえを煽る事だった。
「いいか、タツキ。人を好きになるという気持ちはなぁ、誰にも邪魔できないんだ! 例えそれが上司でも、火影様でもなぁ! 分かるかぁ!?」
「は、はい」
 涙ながらに語るガイに気圧されて、タツキは思わず返事をしてしまった。しまった、と思ったが遅かった。両肩に乗せられた手がバシバシと音を立てる。痛い。
「ようし、分かっているならそれでいい! 俺たちはなまえの気持ちの行方を温かく見守ってやる事だ! それが大人というものだ!」
 ガッツポーズをすると、待機所に何とも言えない空気が流れた。二人をぽかんと見つめる紅とカカシは、タツキを助けようとするのを諦めたらしい。
「お前はいつもドライすぎるんだ。なまえがあんなに一生懸命話しかけているのに、無視をするとは何事だ! あの子が諦めないで頑張るからいいものを、普通の女の子なら傷ついているかもしれんのだぞ!?」
 急にカカシに食ってかかったガイは、次の瞬間にはタツキの方へと顔を戻していた。非常に忙しなく、そして、うっとおしい。
「それにしても、どれだけ冷たくされてもめげず、落ち込まずのあの根性とやる気を育てたのはお前なのかタツキ! 良い教育だ!! オレもそろそろ生徒を持たないかと打診されている! お前に先を越されたなぁ! しかし負けないぞ! 何故かって、オレの未来の生徒が一番だからな!」
 ガイはやっと熱い演説を終えると、わざとらしく息をついてみせ、カカシの向かい側に座った。
 窓が開けられて涼しい室内なのに、ガイだけは汗ばんでいる。暫くの沈黙の後、とても嫌そうにカカシが口を切った。
「……というわけで、大人は見守るのが役目なんだと決めつけられちゃってね。ははは……」
「カ、カカシさん!」
 脱力したカカシを見て『諦めないでください』と喉まで出かかったが飲み込んだ。紅が明らかにガイの側につくような視線をしているのだ。
 三人の様子を交互に窺う。タツキはどうしたらいいか分からなくて参ってしまった。
「いやもうね……何ていうか、手遅れっていうか。周りがこんな奴ばっかりでね。困るっていうのは、お前の部下に対してっていうよりも、大人であるこいつ等の事だから。まぁあんまり気にしなくていいよ」
 力なく笑うと、カカシはひらひらと手を振った。
「でも……」
「タツキ! 男に二言はないぞ! お前もなまえを応援したらどうだ!」
「いえ、で、でも、応援って……」
「あーもーガイうるさい。タツキ、気にしなくていいから、もう行け」
 カカシが出ていくようタツキに指示する。逆らえるわけもなく、タツキは深々と頭を下げると、後ろ髪を引かれる思いで待機所を後にした。
 部屋の中では、またガイがカカシに食ってかかっていた。タツキはもう一度心の中でカカシに謝ると、急いでなまえ達が待つ演習場へと向かった。

 と、これが数週間前の出来事だった。
 あの後、いったいどうしたらいいか考えて答えが見つからなかったタツキは、少し様子を見ることにした。
 自分が待機所へ行くとまた厄介なことになり兼ねないと思ったので、詳しい話はその場面に出くわした友人や同僚から聞く事にした。
 元々評判のいいタツキの生徒だと聞いて、まず第一印象を悪く思う上忍達は居なかったようだ。それに関して安堵すると、次の関門だ。
 カカシが嫌がっているかどうか、というのが一番気がかりでならなかった。
 実際に話を聞いてみると、皆が口を揃えて言うことは「よく分からない」、だった。
「分からないってどういう……」
「う〜ん。それがねぇ、カカシさんって、ほら、マスクと額当てで殆ど顔が見えないじゃない? 隣でなまえが何か言っているのを聞いてても、返事もしないし、時々返事をしたとしても気の抜けたような『ん〜』っていう声だけだったりね」
 それより、食事に行きましょうよ、と同僚の女はタツキの腕にひっついてきた。それどころではないと首を振ると、タツキは申し訳なさそうに女の腕を解いた。
「え〜私よりなまえの方が大事なの〜?」
 甘えた声に乾いた笑いが出そうになる。当たり前でしょーと笑って見せると、女はタツキの笑顔にポッと顔を赤らめた。タツキは颯爽とその場を去ると、別の友人へと話を聞きに向かった。

 誰に聞いても同じだった。カカシのなまえに対する反応は総じて特に良いものではなかった。別に良くあってほしいわけではなかったが、酷い態度をとられたりしていなかったことに安堵してしまった。
 ここまでくると、一番分からないのはカカシの気持ちだった。
 待機所で話をした時には「迷惑だ」と言ってはいたが、いくら周りに囃し立てられようともあのカカシが……冷血カカシとまで呼ばれた男が、たった13歳の子供を振り払えないなんて。
 片手で数えられるくらいしか任務を共にした事はなかったが、元々は根の優しい人なんだろうという事は度々感じていた。そして、とても尊敬していた。
 それでも、何故だろうか。この消えない、薄黒い気持ちは。
 そして、とうとうタツキはなまえに話を切り出したのだった――。

 転機が訪れたのは、ある雨の日の任務だった。少し慣れてきたCランクの任務、慣れてくる頃に気を抜いた瞬間が一番危ないと何度も教わったはずなのに。なまえはその一瞬の気の緩みから怪我を負ってしまった。
 ドクドクと血が流れ雨水に混ざっていくのを見つけた班のメンバーが叫ぶ中、歩く事が出来なくなったなまえはタツキに抱えられて里へと戻って来た。
 幸い後遺症が残るようなものではなく、しばらくの安静を必要とするくらいで済んだが、二週間は上手く動けなかった。
 何よりも、任務は失敗に終わってしまった。翌日、なまえ抜きで改めて任務をこなしたと聞かされたが、なまえは酷く落ち込んでしまった。
「あの、なまえ来てます?」
 待機所に顔を出したタツキに、皆首を横に振った。タツキは肩を落とした。
「そうですか……」
「そもそもここ二週間くらい来てないけど。なまえどうしたの?」
 紅がタツキの後ろに現れた。
「カカシも気になってるんじゃないの?」
「え〜別に」
 紅がカカシの前に腰を下ろした。本から視線も上げず、カカシは気のない返事をした。タツキは少しだけムッとしてしまった。
「で、何なのよ。なまえの事。何かあったの」
 タツキが話し出すと、部屋にいる他の数人の忍も聞き耳を立てた。
「任務でなまえが怪我をしてしまって……しばらく安静にするように言っておいたんです。怪我が治ったようなので今日からまた班で行動するよう言ったんですけど……今朝の集合場所に来てなくて。家まで行っても居ないみたいで……ここに来ているのかと思ったんです」
「へぇ……」
 紅は眉を寄せた。
「なまえのせいで任務が失敗したの?」
「えぇ、まぁ。でも、そんな大した任務ではなかったんで、翌日なまえ抜きで任務は遂行したんです。特に問題なく終わりましたし、気にするなとも言っておいたんですけど……」
「あらまぁ。落ち込んじゃったのね、きっと」
「……ですかね」
 みんな最初はそんなもんよ、と紅の軽い言葉が返ってくる。本当にそうなのだが、それでも一番最初の失敗は誰にでも堪えるものだ。ここに居る皆が経験したように。
 タツキはため息を吐くと、う〜んと考え込んだ。なまえの居そうな場所を考えているらしい。最も、思い当たる場所にはすべて行ってみたのだが。
「何か知らないの? カカシ」
「なーんでオレが知るわけよ」
「あらぁ、飼い犬が逃げ出したっていうのに」
「やめてよ、あんなじゃじゃ馬飼いならせません」
 周りがどっと笑う。じゃじゃ馬だなんて……なまえは一体何をやらかしたのだろうか、と聞きたくなったが、聞いても後悔しそうだと思い止まった。タツキは目を細めて窓の外を見やった。そろそろ陽が傾きそうだった。
「もう今日は諦めます。他の子達待たせてるんで……もしなまえが来たら、明日は演習場に来るよう言ってもらえますか」
 笑って頷いた紅を見て、タツキはその場を去っていった。

「じゃじゃ馬ねぇ。懐いてくれて可愛いもんじゃないの」
「可愛いってああいうのに使うっけ」
「うっわ、カカシさいてー」
 何とでもお言い、と紅の言葉をかわすと、カカシは愛読書を閉じた。
「どこか行くの?」
「まぁね。今日は特に用事無いし。もう帰るよ」
「ふーん」
 去っていくカカシの後ろ姿に、紅の視線が刺さる。幻術でも食らってるように、無言でブスブスと刺してくる視線に気が付かないフリをして、カカシは待機所を後にした。

 公園のベンチに座って、目の前の池をぼーっと眺めていた。水面に時々浮いてくる鯉が、ぱくぱくと口を開ける。
 なまえはもう何度目になるか分からないため息を吐くと、足元の石を転がした。少し勢いがついてしまった石は、音を立てて池の中に沈んでいった。驚いた鯉達が一斉に散っていくのが見える。
「あーらら。鯉がびっくりするじゃないの」
 ひっ、と声が出た。声の聞こえた方を向くと、長身の男がなまえを見下ろしていた。コの字に並んだベンチの向かい側に座ると、カカシはいつものように愛読書を取り出した。
「(またエッチな本読んでる)」
 なまえは本とカカシを交互に見た。
「タツキが探してたよ」
「……」
 カカシに言われ、なまえはバツが悪そうに俯いた。風が東屋の中を通り抜けていく。
「任務失敗したんだって」
「なっ、何でそれ……」
 バッと顔を上げると、カカシは本を読むのをやめてなまえの方を見ていた。なまえの心臓が波打つ。カカシと目があったのは久しぶりだったからだ。
「怪我したんだって」
「……はい」
「もう治ったの」
「はい。もう何ともないです……」
 初めて会った時と、二度目の時以来だった。カカシから話しかけられたのは。なまえは素直に答える。が、自分からは何も言わなかった。
 いつもなら途切れることなく話しかけてくるなまえが何も言ってこない。こりゃ結構重症だな、とカカシは目を伏せた。
「まぁ、失敗なんて誰でもするでしょ」
「……はたけさんも、失敗した事ありますか」
「あるよ」
 アッサリとした返答に拍子抜けした。なまえは本当に驚いた様子でカカシを見た。
「何、オレが失敗した事ないとでも思ったの」
「だって……里始まって以来の天才だって……」
「あのね、オレにもお前と同じ子供の時代があったんだよ」
 信じられない様子のなまえを見て、カカシは優しく笑った。そして、ふと、まじめな顔に戻ると、
「二度、失敗したよ。親友を二人失った」
 しまった、と思った。無意識に、その感情はなまえの顔いっぱいに表現されてしまった。
 苦しい思い出を呼び起こさせてしまった。不快な気持ちになってしまっただろうか、となまえは息を殺してかカカシを見た。
 そんななまえの事を見るでもなく、カカシは本のページを読み進めた。
「まぁこんな仕事してるからね。失ったのは親友だけじゃない。上司も部下も、師も。家族も。失敗と呼ぶようならものなら数えきれないな」
 なまえは何も言えなかった。カカシの過去をその言葉から想像するだけで悲しみが溢れて胸が痛い。
 自分の失敗なんて、なんと微々たるものだろうか、となまえは落ち込んだ。
「別にお前の失敗が小さい事とか思ってるわけじゃないよ。どんな失敗でも、本人にとっては辛いだろうからね」
 思っていたことを言い当てられて、なまえは驚いて肩を揺らした。
 カカシはさらにページを読み進めた。最後の1ページだったのか、裏表紙を確認すると静かに本を閉じた。
「まぁ何が言いたいかっていうとね、よく生きて帰って来たよ。怪我だけで済んで良かったじゃないの」
 フフ、とマスクの下で笑うとカカシは立ち上がった。つられてなまえも静かに立ち上がった。
 東屋を出て池を一瞥すると、カカシは夕日が沈んでいくのを見ていた。
 夕陽に照らされたカカシの銀髪が揺れる。なまえはその後ろ姿に小さく謝った。
「タツキが心配してるから、明日はちゃんと演習場行きなさいよ」
「……っ、はい!」
 返事を聞くと、カカシは歩き出した。
 なまえは追いかけてもいいのかと悩み、その場から動けなかった。
「何してんの。暗くなるよ」
 カカシは階段の手前で足を止めた。振り返らずにそう言うと、一瞬で後ろに気配を感じた。
 また歩き出すと、トボトボとついてくる足音。何を思っているのか、考えているのか、丸わかりななまえにカカシは苦笑した。
 励ましたつもりだったんだけどねぇ――と、もう一度苦笑した。
「お前と会うのは大体夕方だな。暗くなってから帰るなんて寮母さんに不良ーとか言われちゃうんじゃないの」
 へへ、と力なく笑うだけのなまえに、カカシは「あららら」と小さく声を漏らした。
「ぶっ……!」
 突然階段の中腹で止まったカカシの腰の辺りに激突した。なまえは驚いて身を引いたが、勢いがつきすぎてバランスを崩した。
 パシッ――と手首を掴まれる。カカシはぐいっとなまえを引き戻した。
 ただでさえ顔一つ分以上身長差があるのに、更に高い位置からカカシがなまえを見下ろす。けれど、その顔はとても優しくなまえを見ていた。
「なーによ、元気出しなさいよ」
「えっ……」
「わざわざ来てやったのに。お前がそんなんじゃ来た意味ないでしょ」
「わざわざ……ですか?」
 カカシはまた階段を上り始めた。ついてくる足音は、幾分軽やかになっていた。
「はたけさん、”たまたま”じゃなくて”わざわざ”来てくれたんですか!? 今、そう言いましたよね!?」
 興奮したなまえが何度も聞いてくる。カカシは暫く質問を交わしていたが、しつこすぎてまた苦笑した。
「一回しか言わなーいよ」
「やだ! もっかい言ってください!」
「ダーメ」
 やっと笑顔になったなまえは、カカシの横に並んで歩いていた。
 いつものようにマシンガントークが始まった。さっきとは一転して今度はカカシが話を聞く番だった。
 もっと修行しなきゃだとか、明日はタツキに謝らなきゃだとか。他愛もない話がずっと続く。けれど、それは耳障りではなかった。
 慣れって恐ろしい――カカシはハハハと笑うのが精いっぱいだった。
 人気が増えてきた辺りで立ち止まると、察したなまえも立ち止まった。カカシはおそらく知り合いになまえと二人でいるところを見られたくはないのだろうと。
 カカシに向き合うと、なまえは深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いや、オレは別に」
「また会いに行ってもいいですか!」
 カカシの口から「えっ」と思わず本音が漏れたが、なまえは気にせずにこにこと笑っていた。カカシの返事を待たず、
「また行きますね! おやすみなさい!」
 有無を言わさず約束を取り付けられたようで、カカシは猫背を更に丸めた。後頭部に手をやると、空を見上げる。

 慣れって……怖い…………

 カカシは人気のない道を選んで歩き出した。夜空には、白い月が顔を出していた。
*前表紙次#

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