ユメ


勘右衛門は走っていた。走って走って走って、どこまでも白黒の世界を逃げ続けていた。追っ手は誰だかわからない。しかし本能が逃げろと告げていた。道無き道をひたすら走る。土地勘の無い場所での逃走はまるで絶望的だった。額の汗が夜道に消えていった。
やがて前方に小さな明かりが見えた。家だ、家がある。何を根拠にそう思ったのかは本人にも不明だが、勘右衛門の心に一筋の希望が差した。明かりに向かってとにかく地面を蹴った。走っても走っても、どれだけ走っても明かりにはまったく近付いていなかった。それでも勘右衛門は光に縋るように走り続ける。足が縺れ何度も躓き泥だらけになっても足を止める事はなかった。しかし限界はいずれ訪れるものだ。膝は擦りむけ出血が見られる。真っ赤に腫れた足はもう言うことを聞かなくなっていた。勘右衛門は拳を地面に叩き付けた。無数の足音が近付いてくる。ああ、これはもう。俯くと視界に光が入る。勘右衛門は目を剥いた。さっきまで遠くにあった家がすぐ目の前にあったのだ。いつの間にか足は動くようになり、とにかく家に逃げ込んだ。
家の中は綺麗に装飾を施され、磨かれたシャンデリアがキラキラと輝いていた。見取れて目が離せない。しかしそうも言っていられなかった。戸がドンドンと叩かれる。追っ手がすぐそこまでやって来ていたのだ。屋敷の廊下を駆けて行った。
長い廊下の突き当たりにはそれは立派な扉があった。勘右衛門はとっさに駆け込み身を隠す。しばらく息を殺しているとやがて音はしなくなった。長い溜息が落ちた。だがその安堵は一瞬のものだった。勘右衛門が身を隠していた重厚な扉が重々しく開かれたのだ。そこで初めて追っ手の姿を目にした。白黒の世界では考えられないほど鮮やかな彩色。赤、青、橙、緑。全身が一色で彩られたヒトガタの何かが溢れていた。そして一体だけ場違いな程真っ黒なヒトガタがユラユラ歩いてくる。ジリジリと後退るが壁に阻まれてしまった。やがて真っ黒なヒトガタが手にした釘バットを振り上げた。刃先は勘右衛門の頭上目掛けて落ちてくる。覚悟を決めた。キツく目を閉じ頭蓋骨が割れるのを待った。空を斬る音。感じる風圧。渾身の力で叫んだ。声が出ない。喉が震えない。叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。出てくるのは僅かな息の音だけだった。

目を覚ました勘右衛門は汗だくの額に触れた。割れていない。荒れる呼吸。安堵の涙が零れた。すべて夢だったのだ。最近同じ夢ばかりを見る。いつも必ずと言って良い程頭蓋が割れる瞬間に目が覚めるのだ。勘右衛門は辟易していた。何故こうも夢見が悪いのか。疲れているかと言えばそこまで限界に近い訳でもない。起きるには少し早い時間だったが二度寝などできる気分ではなかった。眠気はまだ少し残っているが、眠くなったら授業中に眠ればいいのだ。勘右衛門は重い汗だくの体を起こし身支度に専念した。
勘右衛門の通う大学は最寄駅から少し離れていて、電車を降りたらバスに乗り換えなくてはならなかった。同じ大学の学生ばかりが利用するバスである。同じ講義を受けている友人と遭遇するのは最早必然だった。勘右衛門は眠るためにわざとバスを一本見送り、座席に座る事を優先した。一番後ろの窓際だ。寝るには調度良い場所だった。エアコンもそこそこ効いている。勘右衛門はゆっくりと瞼を閉じた。
勘右衛門はモノクロの世界で逃げ回っていた。これは例の夢の始まりである事を告げている。頭の隅でそれを自覚していながらも足を止める事はできなかった。逃げる。逃げる。逃げる。そして僅かな明かりに縋る様に追い掛ける。そこまではいつものストーリー通りだった。しかしここでイレギュラーな事が起きる。ふわりと甘い香りが漂っているのだ。勘右衛門もよく知る甘ったるい香水。暗闇に足を捕られた。その場にみっともなく転がる。光を感じるままに顔を上げた。するとそこには、この夢には絶対に出て来ない鉢屋三郎が立っていた。

「え…?鉢屋?」
「ああ、まずそうな匂いがすると思った」

三郎はしゃがみ込んで勘右衛門と視線を合わせた。

「帰るぞ」
「は?どうやって」
「根性だ」
「はあ?」

バタバタと追っ手の足音が追い付いて来た。勘右衛門は慌てて体を起こし三郎の腕を掴む。しかし三郎はそこから動こうとはしなかった。

「早く屋敷に逃げるよ!あそこに逃げ込めば助かるから!」
「いいや、大丈夫だ。お前が起きればいい話だ」

勘右衛門はますます意味がわからず首を捻った。

「ほら、起きろ、これは夢なんだから」

三郎の言葉を最後に、勘右衛門の視界は真っ黒になった。
人工的な甘ったるい匂いが鼻を刺激している。目を覚ますと隣には先程の人物が座って眠っていた。鉢屋三郎である。勘右衛門は無意識のうちに三郎の手を握っていたようだった。三郎も大人しく手を掴まれていた。夢の中の甘い香りは三郎の香水だろう。この香水は勘右衛門が間違えて買い、あまりに減らないからと三郎に半分押し付けた物だった。窓の外はもう大学の近くだった。勘右衛門は珍しい夢の展開など忘れて三郎の手を握り直した。
無論その程度の睡眠で眠気が飛ぶ訳などなかった。学校に着いても付き纏う激しい眠気。勘右衛門は授業開始15分ですでにモノクロの世界を駆け回っていた。今度は初めから三郎と手を繋いでいた。

「ねえ鉢屋、もうすぐあの屋敷が見えるよ」
「ああ、そうみたいだな。なぁ勘右衛門、これは夢だな?」
「うんそうだよ。俺がいっつも見る夢」
「そうか」

三郎は勘右衛門の手に力を込めた。今日はいつもの夢なのにイレギュラーばかりだった。夢なのだからセオリー通りに行かないのは勘右衛門にもわかっていたが、なんだか少し気味が悪かった。同時に鼻孔をくすぐる甘ったるい香りに心強さを感じた。
いつもとは違った道を三郎と駆け抜ける。すると屋敷の明かりは逃げる事無く唐突にそこに現れた。相変わらず豪華な内装である。感心している場合ではない。今日は三郎もいるのだ。是が非でも追っ手に捕まる訳にはいかない。二人は屋敷の中を走り回った。しかしどれだけ走ってもいつもの部屋に着いてしまう。勘右衛門は覚悟を決めて重厚な扉を押し開いた。三郎は勘右衛門の手を握ったまま足を止めた。部屋にはギリギリ入っていない。

「勘右衛門、この夢は嫌か?」
「ああ、嫌だね。微妙にえぐいし気持ち悪い。何より寝不足だよ」
「そうか。ならお前はここまでだ」

勘右衛門が振り返ると三郎は見慣れたニヒルな笑いを浮かべていた。

「どういうこと?」
「この夢は今日で終わりにしてやる。私の昼飯だ」
「は?」

意味がわからず眉を潜める。三郎は歪んだ笑いを深くして、勘右衛門を扉から遠ざけるように突き飛ばした。勘右衛門は尻餅をついた。その瞬間体が酷く重くなった。どんどん視界は暗くなり体が鉛の様になっていく。三郎が扉の向こうに行ってしまうのを見た。それを最後に勘右衛門の意識は泥に沈んだ。
目が覚めると講義は終盤のまとめに入っていた。ぐっすりと眠っていたのでまったくわからない。隣に座る三郎はまだ居眠りから起きる気配はなかった。それにしてもいつも以上に意味のわからない夢だった。
不思議な事に、その日を境に勘右衛門は例の夢をまったく見なくなった。三郎にも、立て続けに見ていた悪夢に三郎が出て来てからまったく悪夢を見なくなった、と話してみると、あああのクソまずいヒトガタか、と小さく言ったのが聞こえた。

「悪夢なんて見ないに越した事はないだろ」
「うん、まあそんなんだけど」

その時の会話はそれで終わった。しかし勘右衛門は気付いてしまう。ヒトガタの話など三郎にはしていなかった。何故知っていたのだろう。マズイ、とは何なのだろう。夢の中でも昼飯がどうとか言っていたのを思い出した。少し考えて、導き出した答えは、忘れる事、だった。何もなかった。夢を見なくなったのは偶然だ。首を突っ込むなと本能が騒いでいた。悪夢を見なくなった代わりに、不思議な夢を見るようになった。勘右衛門が眠るベッドに三郎が腰掛けている。勘右衛門が見ている"勘右衛門"は苦しそうにうめき声を上げている。三郎が薄く笑い、手の平を勘右衛門の頬に当てると途端に勘右衛門は静かになった。苦しそうだった表情も穏やかなものに代わっている。勘右衛門はただひたすらその光景を眺めているのだ。それが何なのかはわからない。恐らく気にしてはならない事なのだろう。


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