メクラ


深夜3時24分。テレビも電気も消えた真っ暗な部屋。兵助はベッドの隅で膝を抱えている。エアコンがキンキンに効いた部屋で、毛布や羽毛布団を何重にも被り自身を抱き締めていた。全身がガタガタと小刻みに震え顔面も蒼白である。冷汗が背中を伝った。兵助は眠らないために必死だった。眠ってしまえば必ず夢を見る。夢を見るのが酷く怖いのだ。内容は全く覚えていなかった。しかし恐怖感だけはしっかりと覚えている。どの類の恐怖だったかまではわからないが、とにかく恐怖心だけが渦巻いていた。眠ってはいけないという強迫観念が兵助を苦しめる。ベッドのすぐ側にあるテーブルには大量のビタミン剤の瓶が転がっていた。これで3徹目だった。
3徹目ともなれば流石に周りも兵助の異常に気付き始める。最初に兵助の異常に口を出したのは勘右衛門だった。

「顔真っ青だよ。具合悪いの?」朝、教室で合流して開口一番の台詞は兵助を心配する声だった。勘右衛門が心配するのも当然だった。一点を見詰める目は虚で隈はくっきりと刻まれていた。

「いや、ねてない」
「いや、寝ろよ」
「ねたくない」
「寝なさい」
「ねむい」
「寝ろ」
「やだ」

もう、と勘右衛門は頬を膨らませた。意地になった兵助は確実に言うことを聞かないのだ。せめて理由だけでもと問うてみた。

「ゆめをみたくない」
「夢?」
「ゆめ、みたくないんだ」

兵助の口からボソボソと発された言葉。己にも身に覚えのあるものだった。普段なら大の大人が何を言っているのだと笑い飛ばすところだが、兵助の様子にはこちらがふざけられる様な軽さは全く無かった。

「嫌な夢、見るの?」
「こわい。よくおぼえてないけど、こわいんだ。こわいよ、かんちゃん」
「覚えて無いのに怖いの?」

兵助はダランと力無く垂らしていた腕で頭を抱えた。

「こわい、こわいことしかおぼえてない。こわい、こわい」

これは異常だ。病的な怯え方をする兵助に勘右衛門は焦りを覚えた。授業所ではない。直ぐさま兵助を連れて自宅に戻った。兵助の実家よりは勘右衛門の家の方が近い。三郎に代返よろしくメールを送り付けておけば出席は問題ない。とにかく兵助を落ち着かせるのが最優先だった。扉の鍵を開けて部屋に入ると食卓に座らせ緑茶を与える。 受け取った兵助の表情が少しだけ柔らかくなった。

「相変わらず勘ちゃんちのお茶は美味しい」
「そりゃ実家の商売品ですからね。落ち着いたら昼寝しな。うなされてたら起こしてあげるから」
「えええ、やだ…」

尚も嫌そうに眉根にシワがよる。勘右衛門は兵助の額に強めのデコピンをお見舞いしてやった。兵助は痛む額を押さえて俯いた。

「やだじゃないよ。伊作先輩にチクるよ?いいの?健康オタクに説教されても」
「わかったよ、寝るよ。寝ればいいんだろ。俺がちょっとでもうなされたら起こしてよ」
「はいはい。ソファーでもベッドでも好きな所で寝な」

兵助は勢い良く立ち上がると無遠慮に勘右衛門のベッドに潜り込んだ。もそもそと体勢を整えてから寝息が聞こえるまではほんの瞬間だった。余程眠かったのだろう。口は半開きで若干白目を剥いている。その姿にドン引きしたのは勘右衛門だけの秘密である。
それにしても、と勘右衛門は考える。兵助があそこまで異常な程怯えるなんて一体どんな夢なのだろうか。本人は覚えていないと言うが、それでも恐怖だけはしっかりと残っていた。何が兵助を怯えさせているのだろう。つい最近まで悪夢にうなされていた勘右衛門だが、兵助程の恐怖ではなかったと思う。それは恐怖の対象を把握できているか否かの差なのだろうか。目が覚めて、夢を見ていた事だけは確かなのに内容は覚えていない、ということは良くある現象だ。しかしふとした瞬間に断片だけ思い出すのだ。ああ、そういえばそうだった。その程度の事でも酷くスッキリする。兵助は全く思い出せていないのだろうか。
兵助が起きるまでは暇になった勘右衛門。手持ち無沙汰でケータイを手に取った。メールと着信があったようだった。それらはいずれも三郎からのものだった。メールを開くと、講義が終わり次第雷蔵と八左ヱ門勘右衛門宅に来る旨が短く綴られていた。少し騒がしいくらいの方が兵助の気も紛れるかもしれない。了解の返信を送りケータイを閉じた。
元々今日の講義は午前中で終わりだった為、3人が嵐の様にやって来たのは午後1時半過ぎだった。それぞれお見舞いと称したお菓子類や飲物類を差し出すと、ガヤガヤと部屋に入って行く。ベッドではまだ兵助が眠っていた。うなされてはいないが時折苦しそうに顔が歪む。勘右衛門は小さく、静かにね、とだけ言うと茶請けの用意に入った。客である3人は居間の思い思いの場所に腰を下ろした。寝不足で具合が悪そうだ、という説明を受けているので、一応大人しくしているつもりである。勘右衛門が菓子類と飲物を運んで来ると、三郎が大きな欠伸をしてうつらうつらしていた。隣に座っていた雷蔵が、寝ちゃえば、と頭を撫でると、もそりと起き上がり兵助が眠るベッドに寄り掛かり程なくして寝息をたて始めた。

「寝るの早いな」

最早マイカップと化しているお気に入りを手にして、八左ヱ門は三郎を指した。

「三郎は夜更かし大好きだから。朝早いしどうせまた寝てないんじゃない?」
「兵助も寝不足だもんな。お前ら早く寝ろよ」
「僕は睡眠最優先だから早寝遅起きだよ」
「それで三郎のモーニングコールか」
「目覚めスッキリだよ」

勘右衛門は2人を尻目に兵助の様子を伺った。そして兵助の異変に気付いた。仰向けの状態で左腕を持ち上げ正面に伸ばしている。何かを探しているかの様にも見えた。残る右手は己の首を押さえていた。爪を立てているらしく首にはいくつかの生傷が出来ている。直ぐに兵助の肩を掴んで揺らし、名を呼んでみても目覚める気配はない。兵助は苦しそうに息を荒くし、何かを掴もうと腕を前に出す。口を開いて勢いよく息を吐く様は叫んでいる様にも見えた。雷蔵も八左ヱ門も兵助を起こそうと体を揺らしてみたり頬を叩いてみたりしたが、気付く気配は全く無かった。それは三郎に関しても同じ事が言える。どれだけ大きな声を出そうにも目覚める事はなかった。やがて兵助の腕から急に力が抜け崩れる様にベッドに落ちた。首を引っ掻いていた手も静かに脇に落ちる。荒かった息も段々と落ち着きを取り戻した。取り合えずは一安心だ。

「何だったの今の」

雷蔵は怪訝な顔付きで未だ眠る兵助を覗き込んだ。勘右衛門も八左ヱ門も首を捻る事しかできなかった。
それから30分程して兵助が目を覚ました。矢継ぎ早に心配の声を掛けられて困惑している。眠っている時の様子を聞くと、まるで覚えがない、と目を瞬かせた。更に5分程で三郎も起きた。一部始終を聞かされても特に驚く事も無く、ただ怠そうに相槌を打つだけだった。

「ねえ兵助、夢は、」
「ああ、なんか、夢は見てたけど、思い出せないなあ。でもさっきは怖くなかった。どうしてかわからないが、もう怖くはないよ。もう大丈夫、だと思う」

勘右衛門がこっそりと夢の話を聞くと、意外にも兵助はケロッとしていた。思い出せはしないが、もう思い出せない恐怖は消え去ったらしい。そう、と小さく返して兵助にも飲物を進めた。
後日、事の経過を尋ねてみた。あれから怖い夢とやらは見なくなったらしい。

「勘ちゃんのおかげだ。ありがとう」

ご自慢の豆腐を差し出しながら兵助は嬉しそうにはにかんでいた。ああでも、と続ける。

「ここ2、3日三郎の夢を見るんだ。夢の中で、嫌だなあ、怖いなあ、と思うと三郎が出て来て一緒にいてくれるんだ。意味わかんないよな。三郎のくせに」

勘右衛門は違和感を覚えた。勘右衛門も同じ経験をしている。悪夢を見なくなって、代わりに三郎の夢を見る様になる。偶然だろうか。吹き出る汗を全身に感じ、眼球を忙しく動かす。兵助が眠っている時、三郎も横で眠っていた。勘右衛門の夢に初めて出て来た時も三郎は隣で眠っていなかっただろうか。勘右衛門は大きく首を振って無理矢理思考を停止させた。勘右衛門の突然の行動に、兵助は目をパチクリさせている。ごめん何でもない。そう言い訳をして引き攣る頬で無理矢理笑って見せた。偶然だ、そうに決まっている。無理矢理にでも笑っていないと汗が止まりそうになかった。


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