「名前、」

耳元を悩ましげな低音が掠める。その吐息が耳にかかって、ぞくり、背筋が震えた。どくどくと心臓が急に速度を上げ始める。

いつものように余裕ぶった声で、名前ちゃん、と呼ばれるのとはまるで訳が違う。部活中に無表情で、苗字、と呼び捨てにされるのともまるで訳が違う。けれど熱を持った低音がびりびりと鼓膜を揺さぶるのは、確かに自分の名前だった。

けれどあまりに突然のことに動揺を隠せない名前は、ただぴしりと身体を強張らせることしかできなかった。逃げようにも足が動かない。

まあ、どのみち彼の――忍足の両腕にがしりと後ろから抱き締められているのでこの場から逃げ去ってしまうことはできなかっただろうが。背中にぴったりとくっついた忍足の胸の感覚に、全身から汗が吹き出してきそうだった。

この状況に、何か反応しなければ。そうは思っているのに、ひどく喉が乾いているような、喉がくっついてしまったかのような感覚に見舞われ、言葉が出ない。先程から心臓が脈打つ速度も尋常ではない。心臓が煩い。その音が背後にぴったりとくっついた忍足にも聞こえてしまうのではないかと思えて、名前はぎゅっと目を瞑った。

「……っ、好きや、名前。」

弾かれたかのようにびくりと肩が跳ね上がる。けれど言葉は確かに耳に入ってきたのに、なかなか頭には入ってこなかった。

真っ白な頭のままで、身じろぎ、斜め後ろを見上げれば、すぐそこにあった瞳と眼鏡のレンズ越しに視線がぶつかる。思っていたよりも近いところに彼の顔があったことに驚く。自分の顔に熱が集まってくるのが分かる。

とても彼を直視していられるような心理状態ではなかったはずなのに。目が合った瞬間、金縛りにあったかのように顔を逸らすことができなくなってしまっていた。――そこから、目を離すことができない。

何か…何か反応しなければ。けれど薄く開いた唇は相変わらずそれに応えることも、拒絶することもできない。ただ固まったように、魅入られたように見つめるだけ。

……どれくらい見つめ合っていたのだろうか。1分、あるいは10秒だったかもしれない。不意に自分の顔に影が落ちるのが分かった。

距離が詰まる。それと同時に、息が詰まった。


知ったら最後


(あとは落ちるだけ。)