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「キス、してください。」
前を見据えて、ひと呼吸。そう、これは私の学生生活最後にして人生最大の我が儘だった。
今回、首席で卒業できることが確定した私に何かしてくれると言い出したのはケイネス先生の方だったが、きっと先生はこんな返答なんて想定だにしていなかったことだろう。鳩が豆鉄砲をくらったような顔をかっと紅く染めてケイネス先生は声を荒げた。
「ふ、ふざけているのか…!?」
「ふざけてなんかないです。出来ることなら何でも、と仰ったのは先生じゃないですか。」
「…ッ調子に乗るな!」
ぴしゃりと言い放つケイネス先生に思わず私もたじろいでしまったが、私だってただの思い付きでこんなことを申し出た訳ではない。これが最後の最後のチャンスだと思って、恥を忍び、覚悟を決め、勇気を振り絞ってこの高い高いハードルに挑んでいるのだ。ここで引くわけにはいかない。
「おでこでも頬でも手の甲でもいいですから、」
「名前、先程の言葉を聞いていなかったのか?」
「キスぐらい挨拶のようなものじゃないですか。」
なおもがんとして食い下がる私に今度はケイネス先生が少し狼狽える番だった。今まで先生の言うことに従順だった優等生の名前・苗字がこうも聞き分けの悪い嫌な女になるなんて。きっと先生も初めてのことに大層驚いたことだろう。
彼はわなわなと口元を震わせて私を見詰めた。負けじと私も先生を見詰め返したが、さすがにこれ以上はそろそろ水銀が飛んできても可笑しくない頃だ。
…退き時か。そう思い、諦めて視線を逸らそうとしたとき、だった。白手袋をした片手にぐいと肩を引き寄せられ、もう片方の手にがしりと後頭部を掴まれたのは。
後頭部を固定する手がケイネス先生の手だと悟ったときには、すでに鼻先が触れ合いそうな距離にケイネス先生の顔があった。
「!?」
あっという間にその距離さえ縮まって、今やケイネス先生との距離は、ゼロだった。唇に触れている温かいものが何なのか、理解できない距離ではない。
こうなることを自分は望んで止まなかった、はずだった。が、如何せん突然のことだったがために呼吸することさえ忘れてしまっていた身体が反射的に酸素を求め始めて身を捩る。両手をケイネス先生の胸板に乗せて必死でぐいぐいと押すと、ほんの少しだけ唇が離れた。
「…ち、ちょっと待っ…んっ、」
空気を取り込むついでに何か言おうとした口を、ケイネス先生のそれでまた塞がれる。まだ上手く酸素を取り込めていなかったらしい頭は軽い酸欠でとろんとしている。今の私にはただ先生の服をきゅっと掴んでいることしかできなかった。
「はあ…これで満足か。」
ようやく唇が解放されて、後頭部を押さえていた彼の手がゆっくりと外される。
しかし、もう顔を上げることはできなかった。恥ずかしすぎてまともにケイネス先生の顔を見ることができない。言葉も出てこない。
けれどどうやらそれはケイネス先生にとっても同じだったらしい。すぐにぷいとこちらに背を向けてしまったケイネス先生にちらりと目を遣ると、ほんのりと耳が紅くなっているのが見てとれた。
けれどお互いにそれ以上何か言葉を重ねることはしないまま、ケイネス先生は隣の部屋に消えていった。