冷たい。最初に頭が弾き出した感想がそれだった。頭から被った水が髪の毛の先から垂れてぽたぽたと流れ落ちる。

ああ、と溜息こそ漏れたものの、ここまで来れば最早舌打ちする気にも、あっという間に小さくなって消えた相手の背中を睨み付ける気にも、そんな自分の境遇を嘆く気にも、なれなかった。

苗字の家は数代に渡り魔術師を輩出している血筋ではあったものの、時計塔に於いてはまだまだ名門とは呼べないレベルの家系だった。少なくとも、出来は悪いが血統書付きの連中に水を吹っ掛けられるくらいには貧相な家系である。

水浸しになった髪をぐしゃりと掻き上げ、頬に張り付いた髪の毛を払い除ける。ぎゅう、と服の裾を絞れば、ぽたぽたと水が滴って足元にできていた水溜りが広がった。

「私の研究室の前を水浸しにしおって…。」

そんなとき、突然背後からかけられた声に名前は弾かれたように後ろを振り返った。声の主が誰なのか、それは振り向くまでもなく分かったが。

ケイネス・エルメロイ・アーチボルト先生。出来ることなら今はお目にかかりたくなかった相手である。

「…すみません。」

どうして私が謝らなくてはならないのか、とは思いつつも、それでも無駄口を叩かず潔く謝ってみせる方が得策だという知恵は名前にもあった。講師との無駄な言い争いは明るい時計塔生活に支障をきたす。

だが軽く頭を下げたところで、ようやく名前は足元に散らばった紙束の惨状に気が付いた。

水に濡れてぐしゃぐしゃになったレポート用紙はある意味名前の状態よりも悲惨だった。慌てて名前が膝を折り床に散らばった紙を掻き集めるが、すでにその大部分はじわりとインクが滲んでいる。

ひどく惨めな想いで名前が床に落ちた最後の一枚に手を伸ばしかけたとき、けれどその最後の一枚を名前の手が掴むよりも先に、別の手が拾い上げた。

名前の視線が、拾い損ねた紙を辿り、それを摘み上げる白手袋を辿り、そこから伸びる腕を辿り、ケイネスの顔に到達する。半分が水に濡れて解読不能となった紙を凝視するケイネスの瞳を見て、ごくりと名前の喉が鳴った。

「これは…私が先日の講義で提出を指示した論文か?…だが、これではとても読めたものではないな。」

「…すみません。」

ぴらりと突き返された紙切れを惨めな気持ちで名前の両手が受け取った。私のせいではないんですが、と吐き捨てそうになったのは心の中に留めておいて、名前は俯いたままで立ち上がる。今はもう、一刻も早くこの場所から立ち去ってしまいたかった。

「低俗なことをする者共がいたものだな。周りは首席殿を叩き落とすことに随分と御執心な訳か。」

だが立ち去ろうとしたところで思いがけず声をかけられ、びくりと名前の肩が跳ねた。返す言葉は見つからないまま、身体は固くしたままで名前が恐る恐る顔を上げる。

そこには、研究室の扉の前に悠々と立ち、ドアノブに手をかけ、こちらを向いてほくそ笑んでいるケイネス先生の姿があった。

「来たまえ、名前・苗字。タオルくらいなら貸せるだろう。」


メルトカウントダウン


(これが愛なら私はもうすぐ溺れ死ぬ。)