「用もないのに来るなよ」
ガラリ、と白い引き戸を開けた途端に聞こえる声に構うことなく、俺は中へと入っていく。ドアの開く音で誰だかわかるなんて、本当にどうでもいい特技だと思う。
「お腹すいて気分悪い。なんか食べたい」
奥のデスクまで歩いていけば、白衣を着たイケメンが険しい顔で書類に目を通してる。保健室の先生なんて暇そうだと思ってたけど、実は作成する書類がめちゃくちゃ多いんだとか前にこぼしてたのを思い出す。 今日は金曜日だから、できる分は全部処理してしまおうとしてるのかもしれない。
「授業が終わったんだから、さっさと帰れ」
書類の束の1番上にある用紙を裏向けて、こっちに視線を流してくる。その瞳が妙に色っぽくてどぎまぎするから視線を合わせないように屈み込んで、俺はデスクの横にある小さな冷蔵庫の扉を開ける。
「具合の悪い生徒を追い返すなんて、とんだ保健室のセンセイだな」
「お前が悪いのはここだけだろ」
掌で頭をトントンと押さえられて、振り払うように頭を傾ける。
「余計なお世話」
触れられて少しだけ声が上擦ったのは、きっとバレてない。
ずらりと並んだスポーツドリンクの横に置かれてるのは、目当ての小さなパッケージ。オレンジ色のその箱を取り出してシールを捲りそっと蓋を外せば、ツヤツヤと輝くチョコレートのアイシングが視界に飛び込んできた。
「わあ、おいしそう」
細長い繊細な形をしたそれは、最近この学校の近くにできたパティスリーのエクレアに違いなかった。
「いただきます」
指先で摘まんで頬張れば、濃厚な味が口の中に広がっていく。カスタードクリームはコアントローの風味がして、上のパリパリしたチョコレートにはきっとオレンジピールが混じってる。
チョコレートとオレンジを最初に組み合わせた人は、きっと天才だ。
「お前、ホント幸せそうな顔で食うよな」
呆れた声でそう言いながら、先生は立ち上がって扉の方へと向かう。白衣を小さく靡かせながら歩くスラリとした後ろ姿を目で追い掛ければ、長い指先がすっと降りて入口の鍵を掛けるのが見えた。
『なんで鍵掛けてんだよ』
初めてここに呼び出されたとき、同じ光景を目にしてそう言った俺に、先生は眉を上げてにやりと口角を上げた。
『は? お前のためにやってるんだ。他人に見られるのが好きならそう言えよ』
むせ返りそうな度数のアルコールを含んだチェリーのキルシュ漬けを食べさせられながら、わけのわからないままにめくるめく快楽を与えられた記憶を反芻する。
全身が甘く蕩けたあの感覚は強烈で、ひと月経ってもまるで昨日のことのように思い出せる。
最後の一口を食べる直前、こっちに戻ってきた先生に声をかけてみる。
「食べる?」
「もともと俺のじゃないのか」
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