じっとりとした居心地の悪い沈黙を破ったのは、楓だった。
「昨日の夜、笹倉さんと別れてきたんだよね」
ぽつりと言葉を落としながら小さく笑う。笹倉というのがアルバイト先の店長の名前らしい。
「あの人、結構独占欲強くってさ。俺、そういうの苦手だし」
いつもはべらべらと好き勝手に話す楓が、やけに神妙な様子でそう語るのを俺は黙って聞いていた。
「執着されるのが怖いし、それに応えるのも怖い。だって、どうせ別れるんだから」
付き合えば、別れる。どういうわけか楓はそんな風に思い込んでいる。どんな形であれいつか別れは来るんだからその考え方は必ずしも間違いとは言えない。ただ、楓の場合はその意識が人一倍強い気がする。 別れることを前提に付き合う。だからこそ楓は今を精一杯楽しもうと奔放に自由恋愛を楽しんでいるんだと思う。
「でさ。別れたいって言ったんだけど、なかなか納得してくれなくて。やっと渋々受け入れてくれて、でもって最後にエッチがしたいって言われてさ」
「………で、楓はどうしたんだ」
その男の未練がましい態度にカチンと来てつい詰問口調になってしまう。楓は無理に作った笑顔を見せながら縋るような瞳で俺をじっと見つめる。その眼差しは、危うい脆さを孕んでいた。
「俺、頑張って断ったんだよね。断って、突き飛ばして逃げてきた。えらくない?」
そこで流されてセックスすれば、別れ話が有耶無耶になった挙句ずるずるとだらしない関係が続くに決まってる。断ったのは正解だ。そんなことを口にしようとして、俺は息を呑む。
楓のきれいな目から、今にも涙がこぼれ落ちそうになっていたから。
「………蒼ちゃん」
すん、と小さく鼻が鳴る音にたじろいだ時にはもう、勢いよく抱きつかれていた。バランスを失ってベッドに押し倒されてしまう。
「おい、楓」
「蒼ちゃん、あったかい」
涙声でそんなことを言われる。クソ暑いのにくっつくなと思うがこの状況でそれを言えるほど俺は無神経になれない。 肩先に顔をうずめてぐずぐずと泣く楓を仕方なく抱きしめてやれば、しがみつく腕の力が強くなった。 ああ、鼓動が無駄にうるさい。
「俺、あの人のこと、好きだったんだよね」
知ってるよ。もう終わったみたいに言ってるけど、それが現在進行形だってことも。 性に奔放だけど、それでも付き合っている相手がいるときは浮気しない。それでいて、付き合うサイクルは短い。楓はいつも不器用でいびつな恋愛しかできない。
「ほら、泣くなって」
柔らかな髪をそっと撫でてやれば、楓は顔を上げて至近距離で俺を見下ろす。前髪の隙間から覗く瞳は濡れてキラキラと輝く。泣いてぐちゃぐちゃになっているのに、それでも楓はきれいだと思う。 縺れる視線の先に、熱を帯びた眼差しは甘く揺らめく。
「蒼ちゃん、キスしていい?」
「ダメ」
「即答じゃん」
ぐずぐずと鼻を啜って楓は笑う。老若男女を落とす、極上の楓スマイルだ。
「うん。このタイミングで蒼ちゃんとキスしたら友達じゃなくなっちゃう気がする。それはやっぱり、ダメだもんね。蒼ちゃんとはずっとこんな感じでいたい」
恋をすればいつか終わりが来る。だから、友達でいる。 楓の考え方は極論だ。そうとも限らないと楓に言えるほど俺は恋愛を知らない。寄って来た女の子とよくわからずに付き合って、しっくりこないまま別れる。そんな俺は楓のことを何も言えない。
とりあえず確かなのは、楓にとって俺は世界中で唯一恋愛対象にならない人間だということだ。
「もうちょっとだけ、こうしてていい?」
「いいよ」
溜息混じりの答えに安心したように頬を緩めて、楓はまた顔をうずめてくる。
「蒼ちゃんって優しいよね」
「そうでもないよ」
優しいわけじゃない。ただ、近くで楓を見ていると放っておけないだけだ。
今夜は泣いてもいいから、明日からはまたいつもの楓に戻れよ。何もしなくったって、お前のところには男も女もすぐに寄ってくるんだから。
心の中でそんなことを思えば、チクリと胸の奥に痛みが刺す。
「新しいバイト、探さないとね」
ぽつりと呟く楓の声は明るくて、幾分か元気を取り戻しているように思えた。
「すぐ見つかるだろ。バイト先も、次の相手も」
「うん、まあね。俺もそう思う」
あっけらかんとしたいつもの軽い口調に、少しだけ安心しながら俺は考える。
楓が執着されるのを怖がるのは、何か理由があるのかもしれない。 時々何かに怯えながら、それを無理に閉じ込めた痛々しい笑顔で逃げるようにここへ泊りに来ることも、もしかするとそれに関係があるんだろうか。 まあ、あえてそこに触れるつもりもないけれど。
カーテンの隙間から覗くのは、青みを帯びた半月。静かに夜を照らす美しいその姿は、そこはかとなく健気だと思う。29日のサイクルで満ちては欠けてを延々と繰り返しながら、強い光を放ち輝く。 まるで、楓みたいだ。
「蒼ちゃん、好き」
「はいはい」
ふわふわと耳元で囁かれた告白を適当にあしらって、男にしてはやや華奢な身体を今だけ抱きしめながら、俺は胸の奥で燻る小さな火種が広がらないようそっと揉み消す。
"AUTOMATIC CIRCLE" end
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