「何、蒼ちゃん」
他のクラスメイトに混じって更衣室から出ようとする中澤楓を慌てて呼び止めれば、振り返って極上の笑みを浮かべながらこちらに近づいてきた。その顔は嬉しそうで、見えない尻尾がぶんぶんと揺れているのがわかる。
まるで愛玩動物だな。
きれいな形の目が印象的な愛らしい顔を一瞥してから、俺は鞄の中から目当ての物を取り出す。
「こっち来いよ」
空き教室をカーテンで閉め切っただけの男子更衣室には、楓と俺しかいないのに息苦しいほどの湿気と熱気に包まれている。プールの授業が始まってからはここが唯一の更衣室になっているんだから仕方ないが、それにしても蒸し暑い。
不思議そうな表情で俺を見つめながら近づいてくるこの同級生は、恐ろしくきれいな顔をしているが体つきを見ればわかるように紛れもなく男だ。自他共に認めるバイセクシャルの楓がこの容姿と人懐っこい性格を武器に喰った男女は16歳にして数知れず。気に入った相手と光の速さで身体を繋いではいつの間にか別れ、特定の恋人がいないときには後腐れのない関係の相手と暇つぶしに会ってはセックスする。全くもって節操がない。
障らぬ神に祟りなしという言葉に倣い、俺は間違ってもおかしな巻き込まれ方をすることのないよう、こういう楓の恋愛事情についてはあえて踏み込まないようにしている。そんな俺のことがなぜだか楓は気に入っているらしく、『蒼ちゃんは俺の友達!』と辺り構わずじゃれてくる。学校のみならずしょっちゅう俺の家に泊まりに来ては、我が家のように寛いで帰っていく。
俺にとって、楓は未知の生態系に属する生き物だ。
長い手足にやや細身のしなやかな肉づきをした肢体。何の変哲もないスクール水着姿とは言え、確かに楓からはどことなく艶めかしいオーラが漂う。
「授業遅れちゃうよ?」
額にうっすらと汗を滲ませながらそう口にする楓に、俺は今しがた取り出した絆創膏を差し出す。
「ほら、これ」
「えっ。俺、別に怪我してないけど」
きょとんとした顔は、けれど一瞬で何かに思い当たったように顰められた。
「………あー」
「あーじゃない。見せびらかしたいわけじゃないだろ」
ん、と頷きながら指先で鎖骨の浮き出た辺りに触れる。ちゃんと心当たりはあるんだろう。
「この辺かな。蒼ちゃん、貼って」
甘えたようにそう言う楓には全く悪びれる様子がない。小さく溜息をつきながら、俺は白い封を破って中身を取り出す。
楓が指で押さえた部分に残る小さな鬱血の痕は、付き合って1ヶ月程になる楓の彼氏が付けたものに違いなかった。 白い肌にくっきりと色づいて忌々しいほどに存在を主張するそれが完全に隠れるように絆創膏を貼ってやると、楓は満足げに微笑んだ。
「へへ、蒼ちゃん。ありがと」
「ほら、プールに行くぞ」
楓のアルバイト先は近所のファストフード店で、今の彼氏はそこの店長だ。確か年は24歳だとか言ってた。
そいつは楓が高校生だということを当然知っていて、この時期に水泳の授業があることもわかってるはずだ。それを、こんな子ども染みたやり方で自分の所有物だと誇示するなんて。 タチの悪い独占欲。
肩を並べて急いで更衣室を出ながら、俺はなるべくさりげなく聞こえるように声をかける。
「楓。大丈夫か」
ピクリと薄い肩が動く。そんな抽象的な問いかけにもかかわらず、楓は何のことだと聞き返さなかった。
「ん、平気。急ご」
へらへらと笑って足を速める。さらりと風に揺れる色素の薄い前髪が、また少し伸びたなと思った。
******
『ねえ、今から泊りに行っていい?』
土曜日の午後8時。急に電話が架かってきて、二つ返事で承諾すればその30分後にはもう楓は我が家の敷居を跨いでいた。
「こんばんは! お邪魔しまーす」
「楓くん、ごはんは?」
「食べてきたから大丈夫。おばさん、今日も美人だね」
そう言って玄関から上がり込む楓は、いつもどおりの明るい笑顔を満面に浮かべている。うちの母親は、顔と愛想の良さは誰にも負けない楓をいたく気に入っている。楓くんみたいなかわいい息子が欲しいわ、なんて口にするけど、こいつの乱れた性生活を知ればそんなことも言ってられなくなるだろう。
ちゃっかり1番風呂に入った楓は我が家に常備している自分のTシャツとハーフパンツに着替え、俺の部屋で寛ぎながらテレビを点けた。今期ダントツに視聴率がいいらしい法曹界を舞台にした連続ドラマにチャンネルを合わせて、ぼんやりとディスプレイを眺めている。けれど焦点は合っていない。心ここにあらずという顔だ。
「風呂に入ってくるけど、眠かったら先に寝てればいいから」
「ん、わかった」
結構、重症なのかもしれないな。
うわの空で返事をする楓を残して、俺は部屋を後にする。
入浴を終えて部屋のドアを開けた途端、ベッドの上で膝を抱えて座る楓の姿が視界に飛び込んでくる。まるで叱られた子どもみたいだ。
自分で準備したんだろう。ちゃんと楓が寝るための布団はベッドの下に敷かれていた。
「楓、まだ寝ないのか」
その横に腰かけて問いかけると、こくりと頷いて視線を落とした。襟ぐりから覗く鎖骨に視線を移せば、あの痕はもうすっかり消えている。
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