the 4th day[5/21]

僕は制服の左胸から、白い薔薇のブートニアを取り外した。薄い花弁がふわりと揺れて、甘い匂いが仄かに漂う。

『沙生。これを受け取ってほしいんだ』

そう言ってそっと差し出すと、沙生は花へと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、美しい薔薇が呼吸をするかのように小さく震えた。
沙生は僕を見下ろしておもむろに口を開く。

『誰かに欲しいって、言われなかった?』

秘め事を囁くようにそう問われる。僕はかぶりを振りながら、沙生の胸ポケットに香しい花をそっと差し込んだ。
まるで、今まさに結婚式に臨む新郎のようだ。

六年前、沙生は僕が身を包むこの制服を着て、卒業式を迎えた。
当時の僕は、小学校卒業を迎えるところだった。追いつけないことがわかっていながら、いつも僕は背伸びをして沙生の背中を追い続けてきた。
大好きな、憧れの幼馴染み。
手の届かない沙生に恋い焦がれながら、僕は必死に溢れそうな気持ちを抑えようとしていた。
沙生が卒業式から帰って来た日。その胸元で、白い薔薇のブートニアは凛とした存在感を示していた。
どんどん大人へと近づいていく沙生の姿を見ながら、まだ思春期にも満たない僕は想像する。
いつか、沙生は幸せを分かち合う伴侶を見つけるだろう。その人と結婚式を挙げることになれば、僕は近しい者として参列するかもしれない。
そんなことを想像すると、胸が締めつけられるように痛くなる。
沙生にとって僕は、いつまで経っても仲の良い弟のような存在に過ぎない。僕の抱く好意は沙生のそれとは別種のものだ。秘めたこの想いを、告げることはないだろう。
高校卒業という節目を迎えた幼馴染みは、胸を飾る薔薇をそっと外し、僕に渡してくれた。

──飛鳥にもらってほしいんだ。

美しい鳶色の瞳が、光を反射してキラキラと煌めく。その眼差しに吸い込まれそうになりながら、僕は素直に手を伸ばして受け取った。
沙生が身につけていたものを貰えたことが、堪らなく嬉しかった。
あの頃、たとえ想いが通じなくても、沙生の傍にいられることが僕にとって至福の喜びだった。

あの日のことを思い出しながら、六年分の成長を遂げた僕は、沙生が薔薇をくれた意味を改めて考える。
在校生が卒業生のために、園芸部の育てた薔薇を使ってブートニアとコサージュを作る。それが、沙生の母校でもあるこの高校の伝統だと知ったのは、僕がここへ入学してからのことだ。
そして同じ時期に耳にしたのは、知らなかったもうひとつの伝統。

──卒業式の後、好きな人に自分の薔薇を送ると想いが叶う。

あの時、沙生はどんなつもりで僕にこの薔薇をくれたのだろうか。
もしも、僕と同種の気持ちを抱いてくれていたのなら。
それはまさに奇跡だと思う。

『飛鳥』

名前を呼ばれて我に帰れば、沙生はこの春の陽だまりのような優しい眼差しを注いでくれていた。
わずかな光を反射してクリスタルガラスのように煌めく双眸が、本当に美しい。

『大好きだよ』

掌がそっと頬に添えられて、唇が重なる。沙生の想いが身体の中に注ぎ込まれ、僕を満たしていく。
燻る熱に浮かされながら、名残惜しく唇を離した。

『僕の方が、大好きだ』

そう返せば、沙生はもう一度僕の唇を軽く啄ばんだ。これで、ようやく僕の卒業式は終わる。

『帰ろうか』

手を繋ぎ直してホールの扉を開けると、明るい陽の光が飛び込んできて思わず目を細める。
振り返れば、沙生は眩しがる様子もなくただじっと僕を見つめていた。僕の全てを捕らえて離さない、きれいな鳶色の瞳で。
僕は身も心も雁字搦めに愛おしいこの人に囚われてしまっていた。

『沙生、ありがとう』

真っ直ぐに見つめ返せば、視線が甘く絡み合う。
突然、足下がぐらついた。思わず背後を振り返る。外の世界がゆらりと陽炎のように立ち昇り、淡く滲み始めていた。
沙生といられる奇跡が、僕の掌からこぼれ落ちていく。
頭の中で、走馬燈のように目まぐるしく過去の出来事が移り変わる。

──飛鳥。

サキの声が、空の中へと吸い込まれていく。
そして、僕をこの世界に繋ぎ止める、繋いだ右手の温もり。

「……おかえり、アスカ」

はっきりとそう口にして、ミツキは僕に微笑みかける。明るい昼のキャンパスには、爽やかな風が吹いていた。
僕が過去に戻っていたことを、ミツキはわかっているのだろう。
まだぼんやりとしている頭を少し振って、僕は言葉を返す。

「ありがとう」

ミツキと共にいながら僕の魂はふらふらと旅路に出て、そしていつの間にかまた還ってくる。



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