夏草の生い茂った庭に、ささやかな夜風が吹く。頬をそっと撫でる空気は涼しい。 この庭はいい加減手入れしなければいけないのだろうけれど、できればセイちゃんと一緒にしたかった。 いろんなことを、これから二人で経験していきたいと思うから。 庭の片隅にあったブリキのバケツに半分ほど水を張って、上蓋をくり貫いた空き缶に蝋燭を立てて火をつける。子どもの頃にもこうしていたことを思い出しながら。
「……懐かしいな」
そう言ってセイちゃんは目を細める。その脳裏にはどんな光景が描かれているのだろう。 もしかするとそれは、この家でご両親と過ごした記憶かもしれない。 縁側に座り込んで、僕たちはパッケージから取り出したカラフルな花火に着火していく。
「きれいだね」
パチパチと音を立てて飛び散る火花を見ながら、僕はセイちゃんの顔をそっと確認する。その柔らかな表情にほんの少し安堵を覚えた。 けれど花火はすぐに燃え尽きてしまった。思わず二人で顔を見合わせる。
「こんなに早く終わったかな」
「子どもの頃はもっと長く感じたけどね」
いつからだろう。子どもだった頃よりも、いろんなことが早く短く感じられるようになってしまったのは。 僕たちは童心に返り、この時間を楽しんでいた。矢継ぎ早に花火を着けているうちに、残数は着実に減ってきている。 特有のにおいがする煙に包まれながら、僕は他愛もない思い出を口にしていく。 火のついた花火でアスファルトに文字を書いたこと。昨年に残した花火を使おうとしたら湿気てしまって火が着かなかったこと。近所の友達と火の着いた花火を持って走り回り、親に叱られたこと。
「セイちゃんは、こうして誰かと二人で花火をしたことがある?」
さりげなく聞こえるようにそう尋ねれば、きれいな二重瞼の目を見開いて呆れたように答えてくれた。
「ないよ。ノアは俺がそんなにモテると思ってるのか」
「思ってるよ。だって僕はセイちゃんが大好きだから」
ストレートに告白すると、僕の彼氏は照れたように笑う。
「同期には死体と結婚したって言われてるぐらいだぞ」
セイちゃんは今年三十五歳になる。けれど、どうやら今までの交際相手は片手で数えるほどもいないらしい。 最高の男の人だと思うのに、どうしてだろう。外見も颯爽としているし、誠実で朴訥としていて、とても真面目だ。猫と必死に遊んでいる姿や寝起きで付いてしまった寝癖なんて最高にかわいい。みんなに見る目がないと腹立たしく感じる反面、セイちゃんの魅力は僕だけが知っていればいいとも思う。
「あのさ、ノア」
不意にそう切り出されたから、僕は花火から目を離して顔を上げる。セイちゃんは真剣な表情で蝋燭の炎を見つめていた。
「昨日は、六歳の女の子だったんだ」
「うん。佐塚彩ちゃんだね」
僕の言葉にセイちゃんが頷く。僕が法医学教室のことをとても気にしていることに、セイちゃんは気づいている。けれどこうしてはっきりと仕事の話をしてくれたのは、これが初めてだった。
「あの子が倒れていた場所を映す防犯カメラを警察が調べたんだけど、あの場所で交通事故に遭ったり何らかの事件に巻き込まれたりという様子がなくてね。あの子が一人で歩いていて、急にぱたりと倒れた画像が確認できた」
うん、と相づちを打つ。いつのまにか、手元の花火は消えてしまっていた。燃え殻をバケツに入れて、僕は少しずつセイちゃんと距離を詰めていく。
「あの子の死因は外傷性の脳腫脹だった。それも、地面のような平らなところで頭を打ったんじゃない。角のあるもので頭を打ったことで、頭蓋骨を骨折していた。体には多数の打撲痕が認められた。致命傷を負ったのは死亡推定時刻の三十分前で、脳腫脹の症状が出るまで少し時間が掛かった。家を出たときはまだ歩けるぐらいだったんだろうね」
自分の両親に虐待されていたこと。金属バットで頭を殴られたことにより亡くなったこと。 彼女の遺体が語る真実を、セイちゃんは世間に曝け出したんだ。 肩を並べて寄り添いながら、僕たちはそよ風に吹かれる。見上げればきれいな星空が広がっていた。チカチカと瞬く小さな星がとても健気だと思った。 あの子も、お星様になったのだろうか。 僕は最後の小さな封を開けて、カラフルな:こより|を取り出していく。
「線香花火、しよう」
束の中から一本を引き抜いてセイちゃんに手渡すと、微笑みながら受け取ってくれた。僕たちは交互に火を着けて、最新の注意を払い足元に花火を垂らす。
「僕、線香花火が苦手なんだ。すぐに落ちちゃう」
そう言った途端、ぽとりと小さな火の玉が落ちてしまった。けれどセイちゃんの花火は大きな玉を作り、短い火花がやがてバチバチと音を立てて華やかに弾けていく。
「やっぱりセイちゃんは手先が器用なんだね」
普段メスを握るその手は、昨日小さな女の子の遺体を切り、今は線香花火を持っている。それがひどく不思議で神聖なことのように思えた。
「実はね、コツがあるんだ。火薬が詰まってるところより少し上の部分を絞ると、落ちにくくなる」
「そうなんだ。僕もやってみよう」
勿体ぶらずにあっさりと種明かしをしてくれるところも好きだと思った。セイちゃんが言うとおりにしてもう一度火をつけると、僕の花火もうまく弾け出した。
「本当だ」
今度は落ちないように。そう願いながら、僕はセイちゃんにそっと語り掛ける。
「彩ちゃんは亡くなる直前、花火を買いに行ってたんだって。もしかしたら、家族で花火をしたかったのかもしれない」
僕の言葉に考え込むように唇を噛んで、セイちゃんは一言ぽつりと呟いた。
「……そうだったのか」
親から虐待を受けていたとしても、彼女にとっては掛け替えのない家族だった。夏の思い出を残したいと思うほどに。 だから、この花火はそれを叶えることができなかった彼女に対する追悼の儀式なんだ。
「ノア、花火には鎮魂の意味があるんだよ」
「そうなの?」
顔を上げた僕にセイちゃんは小さく頷いた。
「死者を供養するために花火を打ち上げるんだ。だから、お盆の時期に花火大会が集中してるらしい」
花火は人の命に似ている。命を燃やすように美しく火花を散らし、一瞬で消えてしまう様子はとても儚い。 セイちゃんの線香花火が花びらを散らすように細く火花を飛ばし始める。繊細なその光を、僕たちはじっと見つめていた。次第に小さくなり、やがて燃え尽きてしまう。続けて僕の花火も同じように燃えて、光を失っていった。 亡くなった女の子のことをぼんやりと考える。小さな命の灯火はわずか六年で消えて、空へと昇っていった。 法はあの子の両親を裁くだろう。けれどあの子が本当にそれを望んでいるのかどうかは、また別の話だ。 テレビに映っていた大きな目の愛らしい顔を思い出しながら、僕は夜空を仰いでみる。 天の星は誰の頭上にも分け隔てなく煌めく。
「彩ちゃんはきっとかわいいお星様になってるんだろうね」
僕の言葉にセイちゃんは目を見開いて、そしてふわりと微笑んだ。
「ノアは不思議な子だな」
そう言って、ゆっくりと顔を近づけてくるセイちゃんの優しい唇に僕はそっと唇を押しつけた。
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