『……ハルくん。私、結婚するの』躊躇いがちな声が耳元に届いた瞬間、ぐらりと地面が揺らいで目の前が真っ暗になった。「え? ─── ああ、そうなんだ」必死になって平静を装おうとする俺に追い討ちをかけるように、次の言葉がトドメを刺す。『だから、この電話でもう最後にしようと思う』これが、最後の電話。激しい目眩がして、視界がブラックアウトしていく、錯覚がした。揺れたのは地面じゃない。俺だ。携帯電話を押さえて、向こうに聴こえないように盛大な溜息をつく。何これ。もしかして俺、振られた気分になってる?同じ女に二度も突き離されて、心が折れそう。いや、もう折れた。この一瞬で、俺は一気に奈落の底。もう一度溜息をついて、ちょっと泣きそうになりながら、それでも出来た昔の男として掛けるべき言葉をどうにか口にする。「おめでとう、美希」2年間付き合って、同棲して結婚まで考えていた美希が突然出て行ったのが2年前。原因はまあ、俺が悪かったんだよな。なんせ浮気ばっかりしてたからさ。しばらく音信不通だったのに、突然非通知で携帯電話が鳴って ─── それ以来、2ヶ月に1度ぐらいの割合で、美希から俺のもとに電話が架かってくるようになった。どこに住んでるのかもわからないし、こっちは電話番号さえ知らない。だから、美希と俺を繋ぐこの細い糸を断ち切らないように、本当に必死だった。今までいろんな女と付き合ってきたけど、俺の中でやっぱり美希は特別だった。ふらふらと浮気をしては美希の元に帰ってきてたあの頃のように、結局別れたところで俺の中で美希は心の拠り所に違いなかった。もう一度やり直したいとか、そんなんじゃない。ただ、なんとなく心のどこか隅っこを支えてもらってる、そんな感じなんだ。美希と電話で話すのは、本当に他愛もないこと。美希はあんまり自分のことを話さなくて、だから大抵俺が一方的に下らない話を混じえながら近況を伝えて、後ろ髪を引かれるままに通話を切る。毎回その繰り返し。受け持ちの店舗の売上げが伸びたこと。営業部から企画部に異動したこと。昇進が決まったこと。節目節目にあった出来事を美希に報告して、喜びを分かち合って。そういう関係が、ずっと続く気がしてた。それが、まさかのこの結末。めちゃくちゃ落ち込むよ。ああ俺、今度こそ立ち直れないかも。『結婚式のメイクには、ハルくんの会社の化粧品を使うね』慰めるような優しい声音に、俺はそれでも大人の受け答えをする。「そうか。美希がきれいになる手伝いができて嬉しいよ。あ、いや。もともとかわいいんだけど、もっときれいになるんだろうなってこと」あどけなさを残した飾り気のないかわいい顔立ちを思い出す。2年経って、美希はきっとあの頃よりもいい女になってる。ウェディングドレス姿、きれいだろうな。ふと化粧っ気のあまりなかった美希が好んで使っていたリップグロスを思い出す。『HONEY LIP』当時うちの会社の試作品だった蜂蜜味のグロスは、発売を迎えた途端起用された駆け出しのモデルと共に大ヒットし、今やうちの看板商品のひとつとなっていた。 - 18 - bookmarkprev next ▼back