「……別に、いいけど」
理由が見つからない。だから、断ることができなかった。目を逸らしてそう答えれば、きれいに整った顔が近づいてくる。重なる唇の感触に心臓がバカになったみたいに早鐘を打ち出した。 躊躇うことなく挿し込まれた舌の滑らかな熱さに、脳裏がチリチリと甘く燻る。 ── あれ? この感覚。
きっとあの記憶のない夜に、俺はこうしてこの人とキスをしたんだ。 直観的にそう感じた瞬間、身体の奥に変な熱が灯り出した。絡み取られた舌が滑らかにくすぐられて、全身から力が抜けていく。 ああ、これはちょっとヤバくないか?
「……ん、っ」
いつの間にか抱きすくめられてしまって、胸の辺りに両手を添えてみたけど押し退けるにはあまりにも力が弱過ぎた。頭の中が真っ白になったその時、にゃあと小さな鳴き声が聞こえた。 急にリリが起き上がって、鬱陶しそうに前足を上げる。次の瞬間、ガリッと大きな音が聞こえてきそうな勢いで、リリは飼い主の腕を引っ掻いていた。
「いたっ」
顔を顰めながら志郎さんは名残惜しそうに俺から離れて、けれどもう一度軽くリップ音を立てて唇を啄んでくる。その顔の位置が少し下がって、俺の首元に小さくキスを落とした。 何かを植えつけるような仕草に、また身体の芯が震える。
「リリに怒られちゃったね」
悪びれた様子もなく、志郎さんは肩を竦めてようやく俺から身体を離した。解放されたことに息をついて俯けば、艶やかな毛並みをした生き物が欠伸をしながらまた膝の上に座り直す。 お前、俺を助けてくれたの? そう訊いたところで、猫から答えが返ってくるはずがない。リリはただ、志郎さんが気に入らないだけなんだろう。こんなにかわいがってもらってるのに懐かないなんて、本当に気難しいなと思う。
掛時計を見ればもう遅い時間になっていた。まさか泊まっていけとか言わないよな。そっと横顔を窺えばまた目が合って、甘やかな眼差しに射竦められる。 どうしてそんなに愛おしそうな瞳で俺を見るんだろう。 いちいち意識してしまうと、もう何も言えなくなる。俺、本当にこの人と付き合うの? いや、もう付き合ってるんだっけ。
「そろそろ帰る?」
そう訊かれて勢いよく頷けば、頭を優しく撫でられた。触れられるところ全部がくすぐったい。
「次の週末にまたおいで」
当たり前のようにそう言われて、返事に詰まる。さっきから俺は断る理由ばかりを探してる。それでも、うまい言い訳は出てこない。
「バイトがあるから遅くなるし」
「じゃあ、終わる頃に迎えに行くよ」
「……はい」
有無を言わさない口調に仕方なく返事をすれば、志郎さんは微笑みながらソファから立ち上がった。サイドボードからエンジンキーを取る背中をぼんやりと眺めてると、不意にリリが飛びついてくる。
「わっ」
後ろに仰け反った拍子にペロリと唇を舐められた。ざらりとした舌の感触に背筋がゾクゾクする。
「こら。リリ、駄目だよ」
驚いて振り返った志郎さんに咎められて、リリはツンと澄ました顔でソファから飛び降りる。扉の隙間からリビングを出て行く小さな後ろ姿に、胸が騒めく。 ── お前、もしかして。
「トモ、大丈夫? ごめんね」
差し伸ばされた手を恐る恐る取って、引き寄せられるままに立ち上がる。掌の温もりが気持ちいい。 どうして俺なんだろうと不思議に思うけど、訊いたってきっと納得のいく答えは返ってこない。
繋いだ手を引かれて廊下へ出れば、尻尾を立てながらこちらに向かって歩いてくるリリと目が合った。目配せするようにパチパチと瞬きをしてくる。 飼い主には届かない微かなサインに、俺は黙って頷く。
── わかったよ。
無条件に注がれる愛情を不安に感じてるのは、俺だけじゃないのかもしれない。 言えない気持ちを共有しながら、俺とリリはすれ違いざまに視線を逸らした。
"クラシックタビーの秘密"
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