寒い夜空の下を歩いていると、見知らぬ男の子が落ちていた。 落ちていたというのは全く的確な表現で、文字通りその子は電柱にもたれたまま足を放り投げて道端にペタンと座り込んでいた。
「……おい、大丈夫か」
そう声を掛けたのは、その子があまりにも虚ろな顔をしていたからだ。具合が悪いのかもしれない。
「救急車を呼ぼうか」
関わらない方がいい。けれど、放っておくわけにもいかない。そんな自分の葛藤を満たすための、ギリギリの譲歩のつもりだった。
「……お腹、空いた」
ああ、なるほどね。
見れば随分と薄着で、何も荷物を持っている様子はない。幾らかの所持金もないのか。大学生ぐらいだと思うが、家族や頼れる友達の1人ぐらいいるだろうに。
「オムライス」
ぽつりとこぼれた力ない呟きを、俺は聞き漏らさなかった。
「オムライス食べたい」
「オムライス、ね」
それは唯一と言っても差し支えない俺の好きな食べ物で、自信を持って他人に提供できる得意料理でもあった。
「……うちに来るか」
そうして俺が拾った男の子は、ノアと名乗った。
ノアの箱舟のノア? と訊けば、わかんないと返された。
真夜中のキッチンに、卵の香しい匂いが漂う。 残り物のごはんでチキンライスを作って、半熟のオムレツを乗せただけの、シンプルな料理。
「いただきます」
ちゃぶ台に手を合わせて、ノアはスプーンを手に取る。一口頬張った途端、キラキラと目を輝かせた。
「わあ、おいしい」
向かい側に座って、俺も自分の皿に手を付ける。明るい部屋の中で見るノアはふわりとした癖っ毛に大きな目が印象的な、きれいな子だった。饒舌なわけではないが人懐っこくて、家出少年というわけでもなさそうだが、何か訳ありなのは違いない。
わずか5分ほどで全てを平らげて、ノアは満足げにご馳走様を唱える。
「名前、何て言うの」
「あー……セイ。星座のセイ」
苗字を口にしなかったのは、こうしてこの子を家に連れて帰ってしまったにもかかわらず、俺の中で面倒を避けたいセンサーが一応律儀に働いていたからだ。
「セイちゃん」
初対面でちゃん付けか、と苦笑しながら俺はこの後のことを考えていた。 家が近いなら車で送ってやってもいいし、遠いなら泊めてやって朝に帰らせればいいか。
「何だか俺たち、初めて会った気がしなくない?」
「そうか?」
そう切り返せば、ノアはほんの少し不満げな顔を見せた。
「仕事、いつもこんなに遅いの? 大変なんだね」
「ああ、日によって違うけどね」
今日は検案が多かったからな。 こう見えても一応法医学者で、普段は遺体にメスを入れているんだ。そう告げれば、食べたオムライスの印象を変えてしまいそうで、黙っておくことにする。
「セイちゃん、一人暮らしなんだ」
「ああ」
「結婚してないの?」
「見ればわかるだろ」
「じゃあ、彼女は?」
三十代半ばの男が行きずりの若い男にオムライスを作ってやってる時点で、色々と察してほしい。
「いないんだ」
なぜかノアはとても嬉しそうな顔をして俺を見つめる。その口元にケチャップが付いていることに気づいて、手を伸ばしてティッシュを差し出した。
「ほら。口、ちゃんと拭けよ」
手渡したそれを受け取って、ノアはくるりと口の辺りを拭った。一旦目を閉じて、また開ける。
「取れた?」
その瞳にゆらりと光が燻る。生命を持つ者だけが持つ、何かを訴えるような眼差しだ。 頷けば、腕が伸びてくる。後頭部に掌が掛かってグイッと引き寄せられた。
「セイちゃん、セックスしよ?」
しません。
そう言いかけた唇を唇で塞がれてしまう。仄かに感じるトマトケチャップの甘酸っぱい味に、ああこの子はオムライスの妖精なのかもしれないなと至極非科学的な考えが頭をよぎる。
柔らかな舌先を絡め取って貪っていく。ちゅるりとおいしそうに吸い取られて、身体の内側で何かがふつりと切れる音が聞こえた。
「ん、セイちゃ、」
ああ、違うな。これは理性の箍が外れた音だ。
ガタンとちゃぶ台を乗り越えて、俺はノアの身体にのし掛かった。重ねた肌の熱さに目眩がする。生きている人間に触れるのは、随分久しぶりだと思った。
その日から、ノアは俺の家に居つくようになった。 ノアが本当はどこに住んでいて、何をしているのか。何度か問い質してみたけれど、はぐらかされて教えてはもらえなかった。
「セイちゃんっていつもいい匂いするよね」
ノアはそう言って俺の髪に顔を寄せる。職場でシャワーを浴びてから帰ってくるからなんだが、それを言うのは憚られて曖昧にごまかす。
「そうか?」
「うん」
なんせ解剖の後はにおいが染みつくからそのまま帰るわけにもいかないんだ、などと言えば間違いなく引かれてしまうだろう。
ノアはこの家で出勤する俺を見送って、帰ってくると玄関先まで出迎えてくれる。 食べて、セックスして、眠る。2日に1度はノアにせがまれてオムライスを作る。幸せそうに食べる顔はどうしようもなくかわいい。 このままでいるわけにいかないことはわかっていた。だけど俺は、得体の知れないこの心地よさに急速にどっぷりと浸かってしまっていた。
ノアを拾ってから1週間が経った。帰ってくると家がもぬけの殻だった。
「……ノア?」
セイちゃん。聴こえた気がした声は幻聴だった。 何の前触れもなく、書き置きひとつ残さずにノアは忽然と姿を消してしまった。
ノアがいなくなった翌朝、一睡もできずふらふらの身体で家を出ると、玄関の前に猫がいた。大きな目をした、痩せた猫だ。何かを訴えるようにじっとこちらを見上げている。気になりながらも出勤して、14時間後に帰って来ればその猫はまだ家の前にいた。 か細い声をあげて、こちらに近寄ってくる。
「……ノア?」
にゃあ、と返事をした。
そんなまさかと思いながら、俺はその子を抱きかかえて家に連れ込んだ。オムライスの妖精は、どうやら猫だったらしい。
「ノア、まさか猫だったのか」
にゃあ、とまたかわいらしい声で鳴く。そう言えばとても愛らしい顔をしてるし、オスなのに妙に色っぽい眼差しもよく似ている。
俺は猫に戻ったノアと再び暮らすようになった。
ノアは手の掛からない猫だった。もともと飼い猫だったのかもしれない。トイレの躾も楽だったし、すぐに懐いてきた。オムライスを作ると欲しそうに寄ってきて、ほんの少しを皿に入れてやると一瞬で平らげるところもノアそのものだった。
いつかまた、ノアが人間に戻るときが来るのだろうか。
俺に寄り添って眠るノアを潰さないようにベッドに横たわる。けれど、どれだけ待ってもノアは猫のままだった。
キャンパスに降り注ぐ明るい陽射しに目を細める。 太陽の下を歩くのが苦手だ。解剖室の中で過ごすことの方が多いから、余計に眩しくてうまく目が開けられない。
2限目の講義を終えてから、学食へと足を向ける。さあ、何を食べようか。 前へと視線を向けたその時に、目に飛び込んできた光景に視線が釘付けになる。
何度か瞬きをして、幻ではないことを確認して思わず声をあげていた。
「───ノア」
呼び掛けた名前は思ったよりもずっと大きく辺りに響く。振り返ったその顔は、驚愕していた。駆け出す後ろ姿を必死に追いかける。腕を掴めば息を切らしながらノアは振り返って謝った。
「先生、ごめんなさい」
「……ここの学生だったのか」
荒れた呼吸を整えながらそう言えば、ノアは観念した様子でこくりと頷く。
「でも医学部じゃないよ。法学部の、3年生」
「というか、猫じゃなかったのか」
「どういうこと?」
クスリと笑ったその顔は、光に照らされてキラキラときれいだった。
「今年の5月に何の気なしに受けた法医学の公開授業に、セイちゃんがいたんだ。すごいなって思った」
それは、この大学で一番大きな教室で開かれて、俺が担当した公開授業だった。
『解剖は、亡くなった人の最期の声を聞く手段なんです。どうして亡くなったかを解明することは、死者を悼むことに繋がる。だから、私は法医学に携わることを誇りに思います』
そんな在り来たりな俺の言葉に感銘を受けたノアは、俺の姿を追いかけるようになったらしい。食堂でよくオムライスを食べていること。俺の最寄駅が自分のひとつ手前であること。手にした情報の断片を頼りに、俺の帰る時間を見計らって、待ち伏せをして道端に座り込んだ。
「上手くいき過ぎるぐらい上手くいって、本当に嬉しくて幸せで。でも、嘘ばっかりついてても仕方ないし、大学にも行かなきゃいけないし。このままずっと一緒にいられないのはわかってて、いろんなことがバレたらセイちゃんに嫌われちゃう気がしたんだよね」
だから、逃げたんだ。
昼下がりの食堂でオムライスを突きながら、原田乃空はそう言って項垂れる。そんな顔もかわいいなと思いながら俺は溜息をついた。
「……馬鹿だな」
「知ってる」
泣きそうな顔をしなくても大丈夫だよと言いたいけど、他にも言いたいことはたくさんあった。
「今日、家においで。遅くなるかもしれないけど」
じゃあ、この子は俺が遺体とばかり向き合ってることも知ってるわけだ。そう思うと胸のつかえが取れていくような気がした。
「俺は君のことを何も知らないから」
ちゃんと話がしたいんだ。そう言うと、ノアは頬を染めて呆然と俺の顔を見つめる。穴が開いてしまいそうだ。
「ああ、でも断っておくけど家族が増えてさ」
「えっ」
「ノアっていう猫なんだけど」
「ええ?」
大きな目を丸くして、ノアは笑い出す。セイちゃんの作るオムライスが食べたいなと小声で呟いて、唇に指をあてた。
家に帰ってオムライスを食べて、あとは2人だけの秘密。
『オムライスの妖精』
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