オムライスの妖精[2/2]

僕の彼氏はお医者さんだ。

名前を中塚星というから、僕はセイちゃんと呼んでいる。
セイちゃんは少し変わったお医者さんかもしれない。普段は本当にラフな格好をしているし、身なりに全くもって無頓着だ。休みの日は無精ひげを生やして、服装は着古した T シャツにジーンズが多い。だけど畏まった場に出るときはきれいに髪を整えて髭を剃り、身体のラインにぴったりと添ったスーツを身にまとう。その華麗なるギャップに、僕はどぎまぎしてしまう。
セイちゃんの趣味は、飼い猫とのんびり遊ぶこと。そして、好物はオムライスだ。チキンライスを薄焼き卵で巻いたスタンダードなものから、半熟卵にデミグラスソースを掛けたお洒落なものまで、あらゆるオムライスをこよなく愛している。ちなみにオムライスは僕の大好物でもある。
セイちゃんは僕の通う大学で若き准教授として教壇に立ち、病院でメスを握っている。けれどメスを入れるのは生きた人間の身体じゃない。なぜなら、彼は死者を視る法医学者だから。
毎日毎日、蛍光灯に照らされた薄暗く狭い解剖室で遺体と向き合い、その死因を特定するために丁寧に切り刻んでいく。時には変死体の死因を推定するために警察署へ赴き、死体検案をすることもある。
死んだ人を視るなんて、怖くないんだろうか。
僕も時々不思議に思うけれど、彼にはドロドロとした暗いイメージは全くない。外見も内面も、本当に清々しく爽やかだ。
街で彼とすれ違った人は、この人が今まで数えきれないほどの遺体を解剖していることなんて、想像もしないだろう。
まだ僕たちがこうして付き合う前に、法学部の僕が気紛れに受けた法医学の公開授業で、セイちゃんはこんなことを言っていた。

『解剖は、亡くなった人の最期の声を聞く手段なんです。どうして亡くなったかを解明することは、死者を悼むことに繋がる。だから、私は法医学に携わることを誇りに思います』

亡くなった人の声を聞く。
生きている人間に携わらない医者なんて医者じゃない。そんなことを言って監察医を変人扱いする人もいるけれど、僕はそうは思わない。
セイちゃんの仕事は、崇高で素晴らしい。彼は最高のお医者さんだ。






カチャリとサムターンの回転する音が聞こえて、待ち焦がれていた人が入ってくる。

「おかえりなさい」

「ただいま、ノア」

目を細めながらセイちゃんは優しそうな微笑みを浮かべる。玄関先で抱きつくとふわりと優しい匂いがした。背中に回る腕に力が篭って、確かなぬくもりに安堵する。
どれだけ仕事が遅くなっても、セイちゃんはシャワーを浴びて帰ってくる。理由はあえて訊いたことがないけれど、家に解剖室のにおいを持ち帰りたくないんだろうなと気づいていた。
セイちゃんの住む家の合鍵をもらったのは僕たちが付き合ってから一ヶ月も経たない頃だ。嬉しかった反面、本当にいいのかと不安で恐る恐る問いただしたところ、帰ってきた答えはこうだった。

『俺がいないときに、ノアの世話をしてほしいんだ』

セイちゃんが飼う灰色の愛らしい猫には、僕と同じ名前が付けられている。
彼に拾われてから、痩せた小柄な猫はみるみる大きくなって、今や貫禄さえ感じられる体格になっていた。
僕の後ろにぴったりとくっついて飼い主を出迎えたノアは、一声鳴いてから欠伸をして、ゆっくりリビングへと戻っていった。



「セイちゃん、セックスしよ?」

寝室に誘いながらそう囁いて口づければ、愛しい人はわずかな戸惑いを隠すように瞼をそっと降ろしていった。
ドクドクと心臓の音がうるさい。肌を重ねるときはいつも身体の中も外もすごく熱くて、どこか悪いところがあるんじゃないかと思うぐらいだ。だけどセイちゃんに言わせれば、セックスの最中に脈拍が上がったり汗を掻いたりするのは至極健康な証らしい。

「……あ、あ……ッ」

奥を指でゆるゆると掻き混ぜられて、昂ぶりを優しく扱かれる。
何度も限界を迎えた身体はいつでも受け入れられるぐらい緩んで欲しているのがわかった。焦らされることに堪え切れず、うっすらと目を開けてそっと懇願する。

「セイちゃん……」

腕を差し出せば、手首を掴まれて唇を押し当てられた。濡れた感覚に背筋がゾクリと震える。
両脚を抱え上げられて、次に来る波を待ち構えながら目を閉じれば、欲しかった快感が少しずつ入ってきた。

「あぁ、あ……」

ジリジリと押しひらくように、セイちゃんが僕の中を満たしていく。
この熱を受け入れる瞬間が堪らなく愛おしい。こうして繋がることは、相手が大好きな人だからこそ気持ちいいんだろう。

「ノアの中、すごく熱い」

こぼれ落ちてきた言葉に、僕は確かな質量に喘ぎながら小さく頷く。
セイちゃんは体温を感じるのが好きだ。それは僕も同じだけれど、この人にとってはより特別なことなんだと思う。
この手はいつも、冷たくなった人に触れているから。
緩やかな抽送は次第に速さを増していく。深いところを抉るように突かれて、強過ぎる刺激に目の前が白み始めた。

「あっ、イきそう……ッ」

同じリズムを刻みながら、高みに昇っていく。互いを感じ合いながら、僕たちは急速に浮上し、ゆっくりと落ちていった。





ベッドの中で抱き合って、心地いい疲労感に身を委ねながら、ぼんやりと考える。
解剖は、魂を失った肉体が遺した最期の声を聞く手段だ。
遺体を解剖するのは死因を解明するためで、その対象となる遺体は、犯罪に関わった疑いがあるものか、遺族の承諾を得て行うものだけだ。そして、日本の解剖率は一割強しかない。
だけど僕は、死んだらセイちゃんに視てほしいと思う。
その時は、この身体の中にセイちゃんを愛した痕跡があればいいのに。
そんなことを思う僕は頭がおかしいんだろうか。
腕の中でぬくもりに包まれながら、ふと思い浮かんだ疑問をぶつけてみる。

「セイちゃんは、死んだ人が怖くないの?」

少しの沈黙が続いて、やがてセイちゃんは口を開いた。

「俺は生きてる人間の方が怖いんだ、ノア」

子どもに難しいことを言ってしまった時のような少し困った顔をして、セイちゃんは僕の髪を何度も撫でた。掌の心地よさに、微睡みが訪れる。
目を閉じれば、瞼の裏にぼんやりと光の残像が見えた。妖精の羽根のようなその輪郭を辿りながら、僕は優しい眠りの中へと引きずり込まれていった。










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