夢の畔りに愛を蝕む[2/2]

浅瀬に足を浸して歩くような、戯れのような日々が続いた。
僕たちの距離は以前よりも縮まったけれど、浩輝は一向に僕に手を出す気配はなかった。人目を忍んで唇を重ねるだけのもどかしい関係に焦れて、僕は何かの折に聞いていた住所を頼りに彼の住む部屋へと行って待ち伏せた。

深夜にアルバイト先から帰宅した彼は、扉の前で立ち竦んでいる僕を見て心底驚いた顔をした。僕がこうして押しかけてくるのは初めてだったからだ。

『どうしたんだ』

『ちょっと、会いたくなって……ごめん、帰った方がいいね』

あからさまに動揺する浩輝の顔を見ながらそう口にすると、目を伏せながらかぶりを振って僕の腕を引いた。

『電車はもうない。泊まっていくか』

そっと頷けば、彼は苦悩の顔を見せた。僕が来たことがそうさせているのは明らかで、後悔に胸の中がざわついた。
古い学生向けマンションの小さなワンルームに足を踏み入れる。向かい合って座れば彼は気まずそうな顔で僕を見つめた。
僕は不安で仕方なかった。いつまで経っても触れられないことで、浩輝は本当は僕のことが好きではないのかもしれないという疑念に囚われていた。

『……話さなければいけないことがあるんだ』

彼はおもむろに重い口を開いた。そして、僕は彼の抱えていた真実を聞かされる。

浩輝の母親は服役中だった。母親は父親と不倫していた女の家を突き止めて殺め、その足で帰宅して父親を刺そうとした。それを止めたのは、まだ小学生の浩輝だった。
人殺しの子。どこへ行っても悪い噂は立ち昇り、纏わりつく。たとえ隠し通したところで、身体を巡る忌まわしい血に変わりはないと浩輝は吐き出した。
彼は償う必要のない罪を科せられた憐れな人間だった。

『誰かを好きになったことはなかった。でも、お前のことはどうしても好きなんだ。凌翔、だからもう……』

その先を濁すのは、別れを覚悟しているからだろう。浩輝は誠実で真面目な男だった。

『話してくれてありがとう』

そう口にすれば、彼は意外そうに目を見開いて僕を見つめた。

『今まで一人で苦しかったね』

両腕を伸ばして広い背中に回し、身体を押しつける。ぎこちない震えはどちらのものなのかわからなかった。合わさる唇の隙間から熱い吐息が零れる。もどかしく服を脱がし合って、縺れるようにベッドへと倒れ込んだ。

与えられる愛撫は優しく丁寧だった。未経験の女の子に対してもここまでするものだろうかと思うぐらい、ゆっくりと時間をかけて感覚を高められていく。隅々まで愛されるうちに、身体は次第に敏感になっていった。

細やかな泡が肌を撫でるような刺激に、心の内側から熱い何かが溢れ出すようだった。
身体の中を擽るように掻き混ぜられて、弱い部分を探り当てられた途端、薄い壁を気にして押し殺していた声が漏れた。
泣きそうになる僕の唇に何度もキスを落としながら、彼は宥めるように僕の髪を梳いた。

『大丈夫? 痛い?』

『そんなに、しなくていい……初めてじゃないから』

罪の意識から口を突いて出た言葉に、浩輝は笑って僕の顔を覗き込んだ。

『俺とは初めてじゃないか』

凌翔が嫌ならこのまま挿れなくてもいいよ。そう囁かれて理性はグラグラと揺らいだ。こんな風に愛されたことなどなく、こうして愛されたいと思ったこともなかった。息苦しさに喘ぎながら、意識が流されて溶けていくのを感じた。

『あっ、……挿れて……』

その手がヘッドボードから小さなパッケージを取り出す。前は誰とそれを使ったのだろうと瞬時に思い、胸が張り裂けそうになった。
封を開けようとするのを奪い取って放り投げれば、浩輝は驚いた顔で僕を見下ろす。

『そんなの、いらないよ』

意図的に煽っているのか本能でそう口にしているのか、自分で自分がわからなかった。脚を割り開かれて身体の中を傷つけないようにそっと侵入してくる半身を、僕は腰を揺らしながら受け容れていく。

『──あ、は……あッ』

体内を巡る快楽は眩暈を覚えるほど強かった。何かに縋りたくて、必死にその身体にしがみつく。大きくうねる波に攫われてしまうことが恐ろしかった。
送り込まれる律動は緩やかで、僕の反応を見ながら少しずつ刺激を与えてくれているのがわかった。

満たされていると感じるのはただの錯覚だ。この男が僕に好意を抱くのも、現実からの逃避でしかない。吉賀浩輝という人間の中に流れる忌むべき血は、僕と共にいれば継がれることもなく途絶えるだろう。だから都合よく目の前に現れた僕を選んだに過ぎない。

『好きだ、凌翔。好きだ』

繰り返される言葉に胸が苦しくて幾度も息を吐き出す。労られるように抱かれて知らぬ間に果てて、自分はまだだというのにもうやめるかと僕に問う。残酷なまでの優しさが心の内側を侵食していく。

『ん、ん……あぁ』

どうにかして快楽を逃そうとかぶりを振った拍子に目尻から涙が零れ落ちる。その雫を指先で拭いながら、浩輝は眉根を寄せて僕に尋ねた。

『大丈夫、痛いか?』

『ちが……』

ごめんなさい。僕には君に愛される資格などないんだ。

心の中でそう懺悔したところで口にすることはできない。胸の苦しさに喘げばまた穏やかな抽送を送り込まれる。ゆらゆらと水面に漂いながら、僕はシーツに幾つもの波を作っていた。

彼を捕らえることはできた。
もう僕は役目を遂げたのだ。

『は、あぁ、イく……ッ』

満ちた後には必ず引いていくことを知っている。
まだ熱の篭る身体を重ね合いながら、僕たちは快楽の余韻に揺られていた。この手を離すことが互いのためになるとわかってはいても、引き返すことは考えられなかった。

『凌翔……好きだ』

僕が近づいた理由を知っても、その唇は同じことを唱えてくれるだろうか。
零れる涙の数だけ僕は嘘を重ねていく。


ねえ、浩輝。
君の母親が殺した人は、僕の知る人の母親なんだ。





暗い深海のような室内は、僕の思考をずぶずぶと呑み込んで跡形もなく消し去ろうとする。
愛ではないしがらみに囚われて、交わりながら泥の底へと沈んでいく。望んで抱かれているというのに身体を繋ぐ行為はひどく煩わしかった。

「──あ、もう……」

ドロドロに溶かされて、意識が飛びそうになったところを後ろから髪を鷲掴みにされて我に帰る。
ああ、いっそこのまま気を失えたらどんなに楽だろう。
床に這いつくばり、ガクガクと揺さぶられながら悲鳴のような声をあげて幾度となく限界まで追い上げられる。
全てのものにいつか終わりは来る。けれど、この関係に果てなどない。

「凌翔」

ずるりと引き抜かれて倒れ込めば抱き起こされる。そんなことに優しさを感じてしまうなんて、僕はどうかしているのだろう。
注ぎ込まれる眼差しが澄んでいるのは、久城がきれいだからだ。
傷つけられて心が歪んでも、久城は美しい。だから僕は久城に囚われる。
熱く濡れた肌だけが確かで、なのにまるで深い海の底にいるように身体の自由が利かない。

「久城……僕は」

朦朧とする意識の中で想うのは叶わない願い。息も絶え絶えにそこまでを吐き出して、続くはずの言葉を呑み込む。

あの男を愛してしまったのだと口にすれば、久城は悦ぶだろう。
その先に待つものを想像することが僕は怖い。

耳元で囁かれるのは、雁字搦めに縛りつける絶望の呪文。

「お前を愛してるよ」


他人のものを奪うのが好きなのは自分が奪われてきたからだと久城は笑う。
瞼を閉じれば闇に映るのは輪郭を失った水の世界。
与えられる口づけに蝕まれながら、僕はこの淵で息を殺し、果てぬ夢に身を投じる。




"夢の畔りに愛を蝕む"





- 2 -

bookmark
prev next





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -