入院先の病院から家に帰ってきた母さんの遺体は、眠ってるみたいに見えた。亡くなったというのは何かの間違いで、本当は心臓だってちゃんと動いてるんだ。そう思うぐらい、すごく安らかな顔をしてた。 こんなに小さかったっけ。 布団に横たわる母さんは、10歳の自分よりもずっと小柄で細い。
──── 帰ってくるまでお父さんのこと、よろしくね。お父さんより伊吹の方がしっかりしてるから。
そう言って微笑んだ母さんが、まるで1泊旅行をするぐらいの小さな荷物を持って家を出たのが、2ヶ月も前のことだ。
父さんだけじゃなくて、じいちゃんやばあちゃんや他の親戚。周りの人たちは皆泣いてたけど、俺はどうしても泣けなかった。泣けば母さんが死んだと認なければいけない気がしたからだ。
『俺、ちょっとだけ外に出てくる。すぐ帰るから』
顔も知らない親戚が次々と家にやって来て、慌ただしくて落ち着かない。家にこんなに人が出入りするのは初めてだった。重苦しい空気にどうにも耐えられなくて、父さんに一言告げてから俺はそっと家を抜け出した。 外の空気は随分乾いてて、自分の身体も何となく渇いてる感じがした。
だから涙が出ないのかもしれない。
『伊吹』
頭上からの声に見上げれば、声の主が2階の窓から顔を出していた。万里の部屋は道路側だから、外に出ると時々こうして声を掛けられることがある。 窓にかかる薄いブルーのカーテンが、ひらひらと風に揺れてきれいだと思った。
『万里、もう帰ってんの?』
俺の問いかけにちょっと笑って小さく頷く。着ているのは高校の制服じゃなくて、ラフな普段着だった。もう学校から帰ってても全然おかしくない時間なんだと気づく。
『どこに行くんだ』
行くあてなんてなかったから、俺はちょっと迷ってから大きな声で訊いてみる。
『そっち行っていい?』
いいよ、という返事に門扉を通り抜けて玄関先で待っていると、鍵が回る音がして扉が開いた。
『おばさんと海里は、いないの?』
家の中は人気がなくてガランとしてる。中を覗き込んでそう訊けば、万里は『いないよ』と答えながら少し目を細めて俺をじっと見た。 同じ顔をした万里と海里は、何となく雰囲気が違うから俺には区別が付くんだけど、他の人にはよく間違えられるらしい。それが近頃は誰の目にもわかるようになったのは、海里がリムレスフレームの眼鏡を掛け出したからだ。 軽い近視だから、裸眼だと学校では板書が見えにくいらしい。別に掛けなくても日常生活に支障はないみたいなんだけど、本人は『こっちの方が誠実っぽく見えるって女の子のウケがいい』なんて言ってご機嫌だ。そういうところがチャラいんだって、全く呆れる。
『今、買い物に行ってるんだ。戻ってきたら皆で伊吹のところに挨拶に行くって言ってた』
その買い物も、もしかすると母さんの関係の何かなのかもしれない。俺は曖昧に頷いて、勝手知ったる家に上がり込む。階段を上って左側が万里の部屋で、中に入ると窓からいい風が吹いていた。
『思ってたより元気そうだな』
窓際のベッドの隅に膝を抱えて座り込む俺に、隣に腰掛けた万里がそんなことを言う。
『うん、元気だよ』
『もっと落ち込んで泣いてるかと思って、心配してた』
『なんか、泣けないんだ』
悲しくないわけじゃないけど、と続けると俺の顔を覗き込みながら万里が優しい声で諭してくれる。
『こういう時は、強がらなくていいと思うけど』
『強がってないよ。強くもないし』
そうだ、別に強がったりなんかしてない。ただ、俺はよくわかってないだけなんだ。
『もう母さんと喋ったりすることもできないし、学校帰りにお見舞いに行くこともなくて。母さんは入院ばっかりして家にいないことも多かったけど、それでも今までは3人家族だったのに、これからは父さんと2人になる。そういういろんなことが全部、いまいち実感が湧かないんだ』
だから、泣けない。 窓の外に見えるのは、ガラス越しに広がる茜色の夕焼け。お通夜が明日で、葬儀が明後日。母さんが生きてなくてもちゃんと時間は流れてる。
『じゃあさ』
大きな手がそっと頭に被さる感覚に向き直れば、至近距離に万里の顔が見えてどぎまぎする。
『俺が家族になろうか』
『………へ?』
唐突な言葉に呆然と目を見開いたまま固まってしまう。万里がそんなことを言うのは、母さんがいなくなって家族が減ってしまったみたいな言い方を俺がしたからだと思いあたる。
『家族………』
『伊吹とは、もうずっと前から家族みたいなもんだけどね』
ふわりと大切なものを包み込むように、胸の中に抱きしめられる。優しい温もりに心臓の音がドクドクとうるさい。 誰かに抱きしめてもらったのって、いつ振りだろう。
『無理して泣くことはないけど』
目を閉じて素直に頭を胸に預ければ、小さな子どもにするみたいに何度も髪を撫でられる。万里の身体はあったかくて気持ちいい。
『でも、泣いても大丈夫だから』
耳に届いた言葉に、目と目の間がじわんと熱くなった。鼻の奥がつんと痛い。そういえば最後に泣いたのっていつだっけ。遠過ぎてもう思い出せない。
返事の代わりに大きな胸に顔を埋めて、俺はバカみたいに声をあげて泣いた。涙やら鼻水やらで万里の着ていた服をビチャビチャに濡らした代わりに、胸のつかえが取れたように気持ちはスッキリした。
だから、母さんの命日は悲しいだけの日じゃなくなった。
- 3 -
bookmark
|