自分を大切に、なんて。大切にすることの意味が俺にはよくわからない。
視線を落とした俺の頭に手を伸ばして、多田さんはポンポンと髪を押さえつけるように軽く掌を落とした。
「楓くんは、かわいいから。そういうことを言うと、皆本気にしてしまうよ」
9割以上本気なんだけど。子どもに言い聞かせるように顔を覗き込まれて、その瞳の優しさに俺は素直に頷いてしまう。
「ごめんなさい」
そう謝ると、多田さんは小さく息を吐きながら眉を下げる。
「叱ってるわけじゃないんだ」
多田さんは俺の頭をそっと撫でて、首を横に振る。
「悪かったね。そんなつもりじゃなかったんだけど」
多田さんが謝ることじゃないのに。
すっかり呆れられたのかなと思ったけど、そうじゃなかったことに俺は胸を撫で下ろす。
ちょっと変な感じになった空気を元に戻したくて、大きく頷きながら笑ってみせた。
「うん、わかってるよ」
頭に触れる掌はすごく暖かくて、その心地よさにうっとりとしてしまう。
この人の手は、どうしてこんなに気持ちいいんだろう。
「楓くん、またね。気をつけて」
「ありがとう、またね」
具体的じゃないけれど、次の約束。すごく嬉しくて顔が綻んで、遠ざかる姿にいっぱい手を振る。
運命なんて言うと大袈裟だけど、この人と出逢ったこの夜は、俺にとっては奇跡みたいな時間だった。
*****
カードを通してゲートをくぐれば、天井が高くて明るい空間が広がっている。
春休みの真っ最中。大学の図書館は、授業のあるときと比べれば人も少なくて格段に居心地がいい。時間を潰すにはちょうどいい場所だ。
背の高い本棚の間をすり抜けていけば、丸いテーブル席に腰掛けて本を読む女の子の姿が見えた。
宮原美桜(みお)。俺と同じ学科にいる女の子は、今日も変わらずクールビューティ。
「美桜ちゃん」
声を掛ければ顔が上がって、ストレートの長い黒髪がさらりと揺れる。
「楓。よく来たね」
「うん、お邪魔します」
ここは美桜ちゃんの庭。だから俺はそんな挨拶をして、向かいの席に掛けようとする。
「いいよ。この本、借りるから。カフェに行こうか」
そう言って立ち上がる姿は、周りの空気を変えてしまうほどにきれいだなと思う。
言いようのない独特の凛とした雰囲気は、その場にいる皆の目を奪う。
美桜ちゃんと初めて顔を合わせたのは、入学式のオリエンテーションだ。
同じ学科にいる無表情な女の子のことが、俺はすごく気になってた。
美人だからっていうのももちろんあったけど、それだけじゃない。
この間まで制服を着てて、厳しい受験を乗り越えて入学してきた他の新入生の女の子は皆、浮き足立っててどこか落ち着きがない。そわそわしながら新しい環境に飛び込んできてるし、それが普通だと思う。
なのに美桜ちゃんは、不自然なくらいつまらなそうにしてた。
大勢の人たちに囲まれて、1人きり。高嶺の花は、風に吹かれて所在なく揺れてた。
『俺、中澤楓。よろしくね!』
だから、俺は声を掛けた。美桜ちゃんは眉をほんの少し上げて、俺をじっと見た。
『……楓?』
今ならわかる。それが美桜ちゃんの面喰らった顔だったってこと。
俺はそのきれいな女の子の警戒心が吹き飛ぶことを願いながら、ゆっくりと自分の名前を繰り返した。
『そう。かえで』
美桜ちゃんとは、その時からの付き合い。
ああ、あともう1人。そのときに出会った柏木涼平も、よく一緒に行動してる。
動いててもじっとしてても、とにかくいるだけで目に付く。そんな涼平のアンバー色の短い髪や同じ色をした瞳は、名前の通り涼しげな顔立ちをよく引き立ててる。
左の耳朶にキラリと光る、シルバーの爪に囲まれた黒い石。それがプラチナ台のブラックダイヤモンドだと知ったのは、ちょっと仲良くなってから。
俺が言うのも何だけど、涼平はめちゃくちゃ軽くて、しかもめちゃくちゃモテる。
構内を歩けば女の子に捕まって授業に遅れることもしょっちゅう。大学のかわいい女の子は皆、涼平のお手つきじゃないかと思うぐらいだ。
オリエンテーションでも、涼平は当然のように片っ端から女の子に声を掛けまくって、連絡先を交換することに余念がなかった。
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