K01 : 熱の入江[4/24]


自分を大切に、なんて。大切にすることの意味が俺にはよくわからない。

視線を落とした俺の頭に手を伸ばして、多田さんはポンポンと髪を押さえつけるように軽く掌を落とした。

「楓くんは、かわいいから。そういうことを言うと、皆本気にしてしまうよ」

9割以上本気なんだけど。子どもに言い聞かせるように顔を覗き込まれて、その瞳の優しさに俺は素直に頷いてしまう。

「ごめんなさい」

そう謝ると、多田さんは小さく息を吐きながら眉を下げる。

「叱ってるわけじゃないんだ」

多田さんは俺の頭をそっと撫でて、首を横に振る。

「悪かったね。そんなつもりじゃなかったんだけど」

多田さんが謝ることじゃないのに。

すっかり呆れられたのかなと思ったけど、そうじゃなかったことに俺は胸を撫で下ろす。

ちょっと変な感じになった空気を元に戻したくて、大きく頷きながら笑ってみせた。

「うん、わかってるよ」

頭に触れる掌はすごく暖かくて、その心地よさにうっとりとしてしまう。

この人の手は、どうしてこんなに気持ちいいんだろう。

「楓くん、またね。気をつけて」

「ありがとう、またね」

具体的じゃないけれど、次の約束。すごく嬉しくて顔が綻んで、遠ざかる姿にいっぱい手を振る。

運命なんて言うと大袈裟だけど、この人と出逢ったこの夜は、俺にとっては奇跡みたいな時間だった。



*****



カードを通してゲートをくぐれば、天井が高くて明るい空間が広がっている。

春休みの真っ最中。大学の図書館は、授業のあるときと比べれば人も少なくて格段に居心地がいい。時間を潰すにはちょうどいい場所だ。

背の高い本棚の間をすり抜けていけば、丸いテーブル席に腰掛けて本を読む女の子の姿が見えた。

宮原美桜(みお)。俺と同じ学科にいる女の子は、今日も変わらずクールビューティ。

「美桜ちゃん」

声を掛ければ顔が上がって、ストレートの長い黒髪がさらりと揺れる。

「楓。よく来たね」

「うん、お邪魔します」

ここは美桜ちゃんの庭。だから俺はそんな挨拶をして、向かいの席に掛けようとする。

「いいよ。この本、借りるから。カフェに行こうか」

そう言って立ち上がる姿は、周りの空気を変えてしまうほどにきれいだなと思う。

言いようのない独特の凛とした雰囲気は、その場にいる皆の目を奪う。





美桜ちゃんと初めて顔を合わせたのは、入学式のオリエンテーションだ。

同じ学科にいる無表情な女の子のことが、俺はすごく気になってた。

美人だからっていうのももちろんあったけど、それだけじゃない。

この間まで制服を着てて、厳しい受験を乗り越えて入学してきた他の新入生の女の子は皆、浮き足立っててどこか落ち着きがない。そわそわしながら新しい環境に飛び込んできてるし、それが普通だと思う。

なのに美桜ちゃんは、不自然なくらいつまらなそうにしてた。

大勢の人たちに囲まれて、1人きり。高嶺の花は、風に吹かれて所在なく揺れてた。

『俺、中澤楓。よろしくね!』

だから、俺は声を掛けた。美桜ちゃんは眉をほんの少し上げて、俺をじっと見た。

『……楓?』

今ならわかる。それが美桜ちゃんの面喰らった顔だったってこと。

俺はそのきれいな女の子の警戒心が吹き飛ぶことを願いながら、ゆっくりと自分の名前を繰り返した。

『そう。かえで』

美桜ちゃんとは、その時からの付き合い。

ああ、あともう1人。そのときに出会った柏木涼平も、よく一緒に行動してる。

動いててもじっとしてても、とにかくいるだけで目に付く。そんな涼平のアンバー色の短い髪や同じ色をした瞳は、名前の通り涼しげな顔立ちをよく引き立ててる。

左の耳朶にキラリと光る、シルバーの爪に囲まれた黒い石。それがプラチナ台のブラックダイヤモンドだと知ったのは、ちょっと仲良くなってから。

俺が言うのも何だけど、涼平はめちゃくちゃ軽くて、しかもめちゃくちゃモテる。

構内を歩けば女の子に捕まって授業に遅れることもしょっちゅう。大学のかわいい女の子は皆、涼平のお手つきじゃないかと思うぐらいだ。

オリエンテーションでも、涼平は当然のように片っ端から女の子に声を掛けまくって、連絡先を交換することに余念がなかった。






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