冷たい夜風が気持ちよくて、酔いで火照る身体に調度いい。
大学の同じ学科の人たちと、もう2年生が終わるからとか、適当に理由のついた飲み会。二次会に誘われたけど、断って帰ってるところだった。
いつも一緒にいる美桜(みお)ちゃんや涼平が、都合がつかなくて参加できなかったからっていうのもある。
1人でいるのが好きなわけじゃないけど、皆と騒ぐにはちょっとテンションが足りない、そんな感じ。
ガラにもなく元気がないなんて言われたりしたくないし、人と逢う約束があるとか適当な嘘を言って抜け出してしまってた。
でもこのまま真っ直ぐ家に帰るのも何だかもったいなくて、1人で酔い醒ましにふらふら歩いてる。
ほんの半月前までは凍てつくような気温だったのに、頬を撫でる風はもう和らいできてる。
春がそこまで来てるんだ。
この大きな橋を渡れば、駅が見えてくるはず。横を走り抜ける車のテールランプをぼんやりと眺めながら歩道を進んでいく。
ふと川の方に目をやれば、空に三日月が架かってた。
子どもの頃は、月が好きだった。
月にはたくさんの海がある。実際にはそこは黒く見える平原というだけで水があるわけじゃないんだけど、月に海があるって想像するだけでワクワクしてた。
『静かの海』とか、『忘却の湖』とか。神秘的できれいな名前。
原語はラテン語か何からしい。誰が付けたんだろう。すごくセンスよくない?
小さな頃の俺は、月の海や湖の名前を覚えたり、誕生日プレゼントに買ってもらった天体望遠鏡を覗き込んで月を眺めることが堪らなく楽しかった。
そんな気持ちをなくしてしまったのは、いつだろう。
立ち止まって川を眺めていると、水面に月が映っているのが見えた。
金色の三日月が、形を崩してゆらゆらと小さく揺れ動いてる。
空の月は遠過ぎて手が届かないけど、あの月なら頑張れば届くかもしれない。
だから俺は子どもみたいに必死に手を伸ばす。
でも全然届かなくて、思わず欄干から身を乗り出してみる。
落ちてもいいかな。身体、ちょっと熱いし。気持ちいいかも。
それに───。
酔いでぼんやりした頭でいろんなことを考えてると、不意に後ろから強い力で肩を掴まれた。
「───わっ」
バランスを崩して後ろに倒れ込むところを、がっしりと抱きとめられる。
ふわりと、微かに煙草のにおいが鼻についた。
「ほら、危ないよ」
落ち着いた感じの声に振り返れば、びっくりするぐらい端正な顔立ちが目に飛び込んできた。
誰だろう。
鈍い頭を一生懸命総動員させて思い出そうとするけど、心当たりがない。つまり、全然知らない人だ。
「早まるのはよくない、まだ若いんだから」
後ろから抱きしめられたまま優しい声でそう言われて、俺はすごく狼狽えてしまう。
「えっ? あ、えっと」
心臓が、バクバクとうるさく音を立てて鳴ってる。
ほとんど突き放すみたいな感じで慌ててその人から離れて、体勢を立て直してから向き合えばやっと全身が見えた。
20代後半ぐらいの男の人。整ったきれいな顔立ちは、知的で誠実そう。
背が高くて、スーツの上に黒のトレンチコートを羽織ってる。
心配げに俺を見つめるその眼差しを見て、やっと状況が飲み込めた。
この人、俺を救けようとしてくれたんだ。
「あの……俺、川に映ってる月を見てて、ちょっと酔ってるから手を伸ばしただけで。なんか気持ち良さそうだし別に落ちてもいいなぐらいには思ったけど、死にたいとかそういうの、キャラじゃないし、だから」
しどろもどろになりながら必死にそう訴えれば、その人はきょとんとした顔をして、それから急に表情を緩めた。
「───そうか。ごめん、てっきり。悪かったね」
冷たい感じがするぐらいに整った顔は、笑うとすごく優しそうになる。
魅惑の笑顔に惹きつけられていると、照れ隠しのように腕を伸ばして、子どもにするみたいに俺の頭を撫でてくれた。
掌がふわりと髪に掛かって、すごく気持ちいい。
まるで魔法に掛けられたみたいに、夜の世界がキラキラと輝きだす。
「俺の方こそ、ごめんね。紛らわしいことしちゃって」
顔を見合わせれば視線が絡まって、何だかおかしくなって2人で笑ってしまう。
ドキドキは止まらなくて、不思議なぐらい惹きつけられて目が離せない。
なんだろう、この妙な昂揚感。
ああ、どうしよう。
この人、めちゃくちゃタイプなんだけど……!
*****
「俺、男でも女でもイケるんだよねっ」
落ち着いた個室の居酒屋で3杯目の生ビールを煽ってからそう言えば、テーブルを挟んで向かい合う人は一瞬びっくりしたみたいに少しだけ目を見開いたけど、それでもにこやかな笑顔を絶やさない。
簡単にお互いの自己紹介を済ませて、わかったこと。
この人の名前は多田遥人さん。28歳で、仕事帰りに駅へと向かう途中、俺に出くわした。 出逢った勢いで駅前にあるこの店に入った1時間で、俺が得た多田さんについての知識はそのぐらい。
ああ、あともうひとつ。
ビールジョッキに掛けるその手の薬指に光る、シルバーの輝き。
安っぽいファッションリングなんかじゃない。細くて繊細なデザインの、硬質な光を放つプラチナリング。
この人は既婚者だ。
年齢的には結婚してて全然おかしくない。イケメンでしかも優しくて、包容力もありそう。女の人が放っとくわけがない。
でも結婚してるってわかった途端、俺はなんかちょっとガッカリしてて、そんな自分にびっくりした。
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