K01 : 熱の入江[23/24]


心地よい暖かな感覚に包まれながら目を開ければ、仄かな橙色に浮かび上がる天井が見えた。

見覚えのない、さざ波のような柄だ。

ここがどこなのかがわからなくて、頭を少しだけ起こしながら身体の向きを変えれば、隣に横たわる人の顔がぼんやりと視界に映る。

焦点を近くに合わせていけば、わずかに灯るフットライトに照らされたその顔はすごく整っていて、長い睫毛の下から琥珀色の瞳が覗いてた。

俺のことを至近距離でじっと見つめるその人の視線に、チリチリと胸が疼く。

「 ─── 目が覚めた?」

その声を聴いた瞬間、ここへ来てからのことが矢継ぎ早に頭の中を駆け巡る。

多田さんにキスをねだったこと。身体を重ねたこと。そして、意識がなくなる寸前の悲しげな眼差し。

そこから先の記憶が途切れてることに気づいて、途端に何とも言えない居た堪れなさに襲われる。

「ごめん。俺、結構寝てた?」

どっちかと言えば、寝てたんじゃなくて気を失ってたって言う方が正しいかもしれないけど。

「ほんの30分ぐらいだよ」

そう答える多田さんの眼差しは確かに優しくて、だけど今までとどこか違うようにも感じられた。

「先にシャワーを浴びさせてもらったんだ」

少し眉を下げた顔でそんなことを言われて、自分の身体を確認すれば、もうどうしようもないぐらいドロドロになってたはずなのに、やけにさっぱりしてる。

意識のない間に、多田さんがきれいにしてくれたんだ。

「多田さん、拭いてくれたんだね。ありがと」

そのままにしてくれててよかったんだよ。こんなことしてもらうの、申し訳ないし、恥ずかしいしさ。

そう続けようとした言葉を、俺は呑み込んでしまう。

多田さんの瞳にゆらゆらと小さく揺らぐ光。それが何を表わすのか、気づいてしまったから。

そっと腕が伸びてきて、大きな手が俺の頭を優しく撫でる。温かくて心地いい掌。けれど、その手つきはどこかぎこちない。

「 ─── 楓くん」

呼び方が、元に戻った。

その意味を理解した途端、胸の奥が悲鳴をあげて、心臓を鷲掴みにされたみたいな強い痛みが身体を突き抜けていく。

「悪かったね。俺は楓くんのことを、何も考えてなかった」

待って。そんな言葉、俺は聞きたくないんだ。

「多田さん」

絞り出した声が震える。ここで起こったこと全部を否定されてしまいそうで、嫌な動悸が止まらない。

「楓くんは本当にかわいくて、一緒にいることがすごく楽しかった。我慢できなくて、立場を忘れて自分本位に抱いてしまって……申し訳ない」

まるでそれは、別れのことば。

俺の髪を撫でていた手が落ちて、指先が右の耳に触れる。ピリリと走る鋭い熱は、さっきそこを噛まれたときに感じた幸福な服従の感覚を俺に思い出させる。

あの時確かに俺は、この人のものだった。

多田さんから与えられるものは、痛みだって愛おしくて堪らないのに。

そうやって突き放されたら、どうすればいいかわからないよ。

「……俺、大丈夫だよ」

絡まり合う視線が解けないように、俺は目の前の人を縋るように見つめる。

「多田さんの言う立場って、何? 結婚してること?」

小さく息を呑む多田さんの腕をそっと掴めば、ぬるい体温が掌に触れる。

たじろぎから生まれるわずかな隙を突くように、俺は言葉を続けていく。

「俺、多田さんといるとすごく楽しいよ。今日は嫌なことがあったけど、多田さんに優しくしてもらえて、そういうの全部どうでもよくなるぐらい本当に嬉しかった」

それがこの人の負担にならないように。ちょっと笑ってみせる。

「それに、エッチもめちゃくちゃ気持ちよかったしね。多田さんは、あんまりだった?」

「楓くん……」

睫毛の下から覗くきれいな瞳は、俺を映しながら小刻みに揺れてる。

あと少し。もう少し。にじり寄るように、距離を詰めていく。

「奥さんと別れてほしいなんて思わないし、そんなこと望まないよ。多田さんの都合のいいときに、一緒に過ごせたら。俺はそれでじゅうぶんだから。多田さんは、そういうの無理?」

それは、俺の本心に違いなかった。

多田さんは窺うように鼻先の距離で俺を見つめながら、ただ黙って聞いてる。

何かを言おうとして、形のいい唇がわずかに開いた。俺はその言葉を遮って、なるべく明るく聞こえるように、軽い口調でそっと想いを告げる。

「俺はね、多田さんのことが好きだよ」

ほら、これはそんなに重い"好き"じゃないんだ。

そういう雰囲気が伝わるように笑いかけてみる。

だって、この人を失いなくなかった。

一夜の過ちで終わらせたくなかった。

両腕を伸ばし、背中まで回して、手繰り寄せるように抱きしめていく。

多田さんは振り解かなかった。重なり合う肌から伝わるあたたかな体温は、融け合うような心地よさで。

俺は、絶対にこの人を離したくないと思ったんだ。

ふわふわした、不確かなレンアイでいい。

一緒にいられれば、俺はもうそれだけでいいよ。

「多田さん」

額をくっつけて見つめ合えば何だかちょっと照れくさくて、思わず笑ってしまう。

「楓……」

名前がその唇から零れた瞬間、2人の間の小さな空間が甘く揺れて。

唇が触れ合う寸前、俺は願いを口にする。



「俺を、あなたの愛人にしてください」



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