「ううん、何でもないよ」
元気な調子で言いたかったのに、ちゃんとした声が出ない。
駄目だよ。
そんな風に言われると、寄りかかりたくなってしまう。
「たいしたこと、ないんだ。本当に」
無理に口角を上げてみせると、多田さんは俺の瞳を覗き込みながら口を開く。
「お家の人と、喧嘩でもした?」
ただの喧嘩だったら、どんなにいいだろう。
そんなことを思いながら、俺は多田さんの腕に手を掛けて少し強く引っ張った。
「そんなところだよ。ね、たいしたことじゃないでしょ。だから大丈夫。行こ?」
多田さんが止めていた足を動かすからホッとしたのも束の間、俺の方に半歩近づいて空いていた2人の距離を詰めただけだった。
恐る恐る見上げれば、真剣な眼差しが俺を真っ直ぐに捕らえてた。
「大丈夫だったら、どうしてそんなに泣きそうな顔をしてるの」
多田さんのせいだよ、と言いかけた言葉を呑み込む。
なんでそんなことを言うんだろう。普通にしてくれればいいのに。
そんな風に優しくされると、ちゃんと張り詰めてたはずの気が緩んで、縋りたくなってしまう。
多田さんの腕を掴んだまま、俺は目のやり場に困って俯く。
「───多田さん、事情はどうしても話せないんだ。だから、聞いてもらうわけにはいかなくて」
兄貴とあんなことをしてるなんて、絶対に言えるわけがない。
俺の言葉に、多田さんが「わかった」と小さく頷いてくれたのが視界の隅に映る。
落とした視線の先には灰色のアスファルトが広がっていて、そこに突然ぽつりと一点の黒い染みが現れた。
ぽつり、ぽつり。次第に染みは増えて、やがて地面を覆い尽くしていく。
ああ、ちょうどよかった。
代わりに空が涙を流していると思えば、俺はもう何ともない。
「お願いがあるんだ。きいてくれる?」
恐る恐るそう切り出せば、多田さんが息を呑む気配がした。
酔ってるから。嫌なことから逃げ出したいから。そんなときに、優しくされたから。
言い訳なんて幾らでも都合がつく。だから、衝動に任せて俺は吐き出してしまう。
「今夜一晩だけ、一緒にいて……」
こんな形で多田さんに縋るなんて、俺はたぶん間違ってる。
それでも、震える声を強引に押さえつけながらそう口にすれば、胸のつかえがするすると解けるように取れていく。
次第に大きくなっていく雨垂れの音に混じって、「いいよ」と落ち着いた優しい声が聴こえた。
多田さんと並んで2人掛けのソファに腰掛けながら、俺は大きなクイーンサイズのベッドに視線を走らせる。
急に降り出してからどんどん強くなってきた雨を凌ぐために多田さんと2人で選んだのは、1番近くにあった宿泊施設。
よりによって、ラブホテルだった。
酔いに任せて、このままベッドにダイブして寝てしまいたい。それぐらい身体は気怠いのに、あまりにもドキドキしてるせいで、頭の中は妙に冴えてる。
この状況に興奮してるんだと思う。
「結構濡れちゃったね。楓くん、先にシャワーしておいで」
不意に多田さんが俺の頭に手を伸ばして、濡れて額に張り付いた前髪をそっと取り除いてくれる。
その指が触れる感覚にまた心臓が跳ね上がって、ぼうっとしながら俺はきれいな顔をまじまじと見つめてしまう。
緩やかに絡みついてくる眼差しに、吸い込まれそうだ。
「─── 楓くん、大丈夫?」
名前を呼ばれて急に我に返って、慌てて視線を逸らす。
「俺、あとでいいから。多田さんが先に行ってきて」
「いいんだ。楓くんがシャワーを浴びている間に、電話しておきたいしね」
どこに、と言いかけて気づく。そんなの、奥さんのところに決まってる。
「うん、じゃあお先に」
俺は急いで立ち上がる。一緒にいてって多田さんに無理を言ったのは俺なのに、今更申し訳ない気持ちになってきた。
部屋を出てすぐに、ふたつの扉が見えた。焦茶色の扉はきっとトイレだろう。白い磨りガラスの引き戸を引けば洗面所になっていて、そこで服を脱いでから俺はバスルームの扉を開ける。
中は広々としていて、そのせいか少し肌寒かった。
バスタブに浸かってしまうとのぼせてしまう気がするから、お湯は溜めずに、ぬるめのシャワーを頭から浴びる。
ふわふわと浮ついた、変な気持ちだった。
雨宿りができて、朝まで過ごせる場所。その条件を満たす1番近いところが、このホテルだった。だからここに入ってる。ただそれだけ。
それ以上の意図なんて、多田さんにはないんだ。
柔らかなお湯を肩から浴びながら、蒸気を身体の中に取り込むみたいに、ゆっくりと深呼吸する。
吸って、吐いて。何度か繰り返せば、緊張が少しだけ解れた気がした。
ふやけそうなぐらいにシャワーを浴びてバスルームから上がれば、手元にはふわふわの白いバスタオルと、脱いだ服しかないことに気づく。
だいたい俺、こういうところでは何も着ないよ。普通、そうじゃない?
頭と身体を軽く拭いてから、さすがに素っ裸じゃダメかなと思って、バスタオルを腰に巻いて部屋に戻った。
多田さんは2人掛けのソファに座ったまま、煙草を吸っていた。俺をチラリと見て軽く笑みを浮かべると、すぐに視線を落として灰皿の辺りを見つめる。
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