「そろそろ、出ようか」
デザートのティラミスまですっかり平らげたところで、多田さんはテーブルの横に掛かってる細長いバインダーを手に取る。
「あ、ダメだよ。次は俺が出すって言ったよね」
慌てて立ち上がってその手から伝票を奪い取ろうとした俺に、多田さんは優しく宥めるような口調で言う。
「そんなわけにはいかない。楓くんは、まだ学生さんだし」
「関係ないよ。ホントにダメだってば。それ、貸して」
「今日はこっちが誘ったんだし、俺が出すよ。わかった?」
そう言いながら、立ち上がってもう身支度を始めてる。
「1人で食べて帰るのもどうかなと思ってたから、楓くんから連絡をもらえて嬉しかったんだ。だから、本当に気にしなくていいんだよ」
それは優しいけど有無を言わせない口調で、俺は結局言い含められてしまう。それでもお金を出してもらってばかりなのが申し訳ないから、念押しする。
「じゃあ、今度こそ俺がお返しするから。絶対だよ」
多田さんは微笑みながら頷いた。本当にわかってくれてるのかな。
でも、これでまた次に会う口実ができたかもと思えば、嬉しかったりする。
先に店の外で待っていると、会計を済ませた多田さんが出てきた。遠目で見てもやっぱりかっこいいな、なんて思いながら俺は早足で歩み寄っていく。
「ごちそうさまでした。すごくおいしかったし楽しかった。ありがとう」
「こちらこそ、付き合ってくれて嬉しかったよ。ありがとう」
俺の言葉に、にこやかにそう返して多田さんは胸元のポケットから煙草とライターを取り出した。
「ごめん、1本だけ吸っていい?」
俺が頷くのを確認してから、胸ポケットから煙草を取り出す。駐車場の脇の喫煙所で、俺は多田さんが煙草を咥えて火を点けるのをじっと見てる。
長くてきれいな指だ。ひとつひとつの仕草が様になってて、目が惹きつけられる。
「禁煙しようと思ってるんだ」
紫煙をおいしそうに燻らせながらそんなことを言うのがおかしくて、俺はつい笑ってしまう。
「無理してやめることないよ。煙草を吸ってる多田さん、かっこよくて俺は好き」
それはこっそり紛らせた本心だったんだけど、案の定軽く流されてしまう。
「吸えるところも限られてきたからね。肩身が狭くて」
冷たい風が、火照る肌にあたって気持ちいい。
いい感じに酔いが回っていて、身体は熱いのに頭の中はやけにクリアな感じだった。
ふと空を見上げれば、半月より少し膨らんだ月が目に入った。
そこに薄い雲が掛かれば、白い光が淡く夜空に滲んで溶けていく。
多田さんと出逢ったときは三日月だった。この月はこれから少しずつ満月に近づいていくんだろう。
多田さんが煙草を吸い終わるのを待って、2人で肩を並べて駅へ向かう。
熱っぽくてふわふわしてて、まるで雲の上を歩いているみたいに身体が軽かった。
「楓くん、結構飲んでたけど大丈夫? ちょっとふらついてる?」
心配そうに俺の顔を覗き込む多田さんの顔が、本当にきれいだった。
「多田さん、俺が酔っ払ってるって思ってるでしょ? 結構強いんだよ。このぐらい、全然平気」
たぶんね、多田さんと一緒にいることに浮かれてるだけなんだ。
「でも、頬が赤いよ。途中で何かあったらいけないから、家まで送ろうか?」
「そんなのいいって。女の子じゃないんだし」
「別に女の子扱いして言ってるわけじゃないよ」
うん、きっとそうだと思う。
多田さんって、誰にでもそんなに優しいの?
なぜだか胸が痛くなって、喉につかえた言葉を飲み込んでから「平気だって」とへらへら笑ってみせた。
「楓くん、無理してない? 」
心配そうな眼差しでそんなことを言われて、俺は視線を逸らしながら、わざと明るい口調で返す。
「多田さんってホント優しいね。俺が奥さんだったら、きっと毎日気が気じゃないよ」
奥さんをチラつかせたのは、自分の気持ちに歯止めを掛けるためだ。
駅が近づくにつれて、歩く速度は次第に落ちていく。
それが多田さんと別れたくないからだっていうのは、ちゃんと自覚してた。
「足元もちょっとおぼつかないし、途中まででも一緒に行くよ」
電車は反対方向だって言ってたのに、多田さんはまだそんなことを申し出てくれる。
うん、確かに酔ってる。でも、正体がわからなくなるほどでも、自分の言動に責任が持てなくなるほどでもない。
時間を確認すればまだ午後10時で、終電までじゅうぶん余裕はあった。それでも、これ以上この人を俺に付き合わせるのがよくないことはわかってる。
俺は思い切って、少しだけ自分の事情を吐き出してみる。
「俺、今日は家に帰れないんだ。だから、送ってもらうわけにいかなくて。どっか適当に泊まろうかなって思ってるんだよね」
途端に多田さんが足を止めるから、俺も引き摺られるように立ち止まって振り返る。
戸惑いの表情をわずかに浮かべながら喰い入るように見つめられて、その真剣な眼差しに息を呑む。
「楓くん、何かあった? 俺でよければ話してくれればいいよ。こんな道端じゃなくて、どこか落ち着いて話せるところに入ろうか」
それはきっとうわべだけの言葉じゃなかった。心配そうな優しい声を聞いて、俺の胸はずくんと大きな音を立てて痛む。
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