最低限の着替えをカバンに詰め込んで家を飛び出した俺は、ひとまず駅に向かって歩き続ける。
午後3時。雲に隠れた弱い陽射しが、世界を白く照らしてる。
曇り空の下は寒くて、風が吹く度に身体が芯から冷えていく。
今日は家には帰りたくなかった。だから、どこかで夜を明かさないと。
昔から俺は、帰省中の兄貴から逃れるために同級生やセフレのところを転々と過ごすようにしてた。
俺はちゃんと知ってる。誰かと一緒に楽しく過ごしていれば、この嵐はすぐに過ぎ去ることを。
そんな俺が高校生になってからの避難先は、唯一の友達の家が大半を占めた。
蒼(そう)ちゃん。
俺の性格も性癖も理解して、多分ちょっと呆れながら、それでもありのままを受け入れてくれるたった1人の友達。
余計なことは何も訊かずに俺を泊めてくれる蒼ちゃんと蒼ちゃんの家族が住む家は、俺にとってすごく居心地がいい場所。
大学時代の兄貴は、塾講師のバイトや勉強が忙しいと言って、大抵2、3日帰省すれば下宿先へ戻ってた。初めはその間だけ避難するつもりで蒼ちゃんの家に駆け込んでたのに、そこで過ごすのがすごく楽しくて。
兄貴がいないときも月1ペースで親戚の子みたいに入り浸るうちに、親同士も何となく連絡を取り合うようになって、俺は蒼ちゃんと一緒にいるのがもう当たり前みたいになってた。
別々の大学に入ってからは、すっかり連絡の頻度も減ってしまったけど。
久しぶりに蒼ちゃんの携帯に電話を掛けてみる。留守電になりそうな長さのコールが続いてもう切ろうかと諦めたその時、やっとプツリと呼出し音が鳴り止んで、期待してた声が聴こえた。
『……もしもし、楓?』
ちょっと懐かしい響きに、耳がくすぐったくなる。
「蒼ちゃん、久しぶり! 元気?」
『元気だよ』
たったそれだけ。相変わらず素っ気ない話し方に、俺は笑ってしまう。その距離感が俺には心地いい。
「あのさ、今日一晩泊めてくんない? 久しぶりに蒼ちゃんに会いたいんだよね」
少しの間沈黙が続いて、いつもと同じ抑揚のないトーンで返事が来た。
『悪い。今、法事で田舎に来てるんだ』
「……そっか。じゃあ、また今度。ごめんね、急に」
心の中が、靄がかかったみたいに曇っていく。
断られただけでそんな風に沈んでる自分にびっくりする。
俺は自分でも知らないうちに蒼ちゃんのことをすごくあてにしてたんだ。
『───楓』
通話を切ろうとすれば、蒼ちゃんの思い切ったような声が俺を引き止める。
『何かあったか? 明日なら、そっちに帰ってるから』
あんまり踏み込んでくることのない蒼ちゃんがそこまで心配そうに声を掛けてくれるのは、すごく珍しかった。
頑張って明るく言ったつもりだったのに、どこか不自然だったのかもしれない。
「ううん。何でもないよ。蒼ちゃん、ありがと。またね!」
強引に通話を切ってから、溜息をつく。
本当のことなんて、絶対に言えない。蒼ちゃんになら、尚更だ。
じゃあ誰に連絡しよう。涼平は昨日大学で会って、確か今日も女の子とデートするとか言ってた。美桜ちゃんは実家暮らしの女の子だし、夜通し付き合わせるわけにもいかない。
頭の中で、連絡の付きそうな人を考えようとする。
今はセフレの元恋人とか。
時間を持て余したときによく連絡する、割り切って過ごせる相手とか。
携帯電話の中にはそんな気軽に会える人たちの連絡先がいっぱい入ってる。
片っ端から架けていけば、きっと誰かは捕まるんだ。
でも、本当に今夜を一緒に乗り切ってほしい人はこの中にいない。
なぜかすごく虚しくなって、何度目かの溜息をつく。
一晩ぐらい、1人で何なりと時間を潰せる。でも、1人で過ごしたくない。そんな我儘な気持ちが俺の中で曖昧に揺れながらせめぎ合う。
掌の中に収まってるたくさんの電話番号を指でスライドさせて、ある一点でピタリとその手を止める。
ディスプレイに映し出されるのは、最近新しく登録された名前だった。
───多田さん。
忘れてたわけじゃない。それどころか、兄貴といたときも思い出してたぐらいだ。
顔も雰囲気もめちゃくちゃタイプで、すごく優しくて。もう一度、会いたいなと思ってる人。
今日は土曜日だから多田さんはもしかしたら仕事が休みで、奥さんと2人水入らずで過ごしてるかもしれない。
それでも、少しでいい。多田さんの声を聴いたら、なんだか元気が出そうな気がする。
別にやましい関係じゃないんだし。奥さんが一緒でもちょっと連絡するぐらいなら、大丈夫かな。
ドキドキしながら、恐る恐る電話を架けてみる。
何回目かのコールで「はい」と優しい声が聴こえて、心臓が大きな音を立てた。
「もしもし? 多田さん、俺のことわかる? あ、急には思い出せないかな。あの、ほら。この間さ」
一気にまくし立ててしまえば小さく笑い声が聴こえて、それだけでなぜか気持ちがふんわり解れてく。
『忘れられないよ。橋の上で出逢った、楓くん』
名前を呼んでもらって、それだけでめちゃくちゃ嬉しくて顔が綻んでくる。心の中でもやもや考えてたこととか、もう全部吹き飛んでしまってた。
「多田さん、今何してる? もしかして、奥さんと一緒?」
『ううん。仕事で外にいるんだけど』
「うわ、そうだったんだ。ごめんなさい」
仕事中にこんな電話、きっと迷惑がられてる。
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