毎日毎日余計なことを考える隙もないほど内偵捜査に没頭し、仕事に明け暮れた日々の末、ミチルの父親である風間達弥を逮捕する手続きがようやく整った。 明日にでも逮捕に踏み込むつもりだということをミチルに告げれば、受話口からどこか不安げな声が聞こえてきた。
『そうなんだ。あの人、本当に逮捕されちゃうんだね』
「ああ。あの男がお前にしてきたことは、法律上でも許されないことなんだ。それを、本人にきちんとわからせなければ意味がない。わかるか」
実の息子を凌辱し続けた非道な父親。口だけで説き伏せることができる相手ではない。だから、きちんと犯した罪を認めさせ、償わせなければならないんだ。
『拓磨さん、ありがとう。よろしくお願いします』
電話の向こうで頭を下げるミチルの姿が目に見えるようだった。 逮捕すれば終わりというわけじゃない。確実に起訴へと持ち込むために、またミチルに協力してもらうことになる。検事から被害者に対する聴取もあるはずだ。ミチルはこれからも自分の受けた傷と再び正面から向き合っていくことになるだろう。
「ミチル、大丈夫か。不安なことがあれば、どんなことでも遠慮なく言えばいいからな」
念を押すと、ミチルの明るい声が聞こえてくる。
『本当に大丈夫だよ。心配しないで。拓磨さんだけじゃなくて他の刑事さんもよくしてくれてるし、僕にはおばあちゃんもついてるから』
屈託のない口調に少し安堵しながら、俺は小さく溜息をつく。 ミチルは強い子だと本当に感心する。けれど、その強さは脆く危ういものだ。未成熟なこの子は、周りのサポートがなければ簡単に崩れてしまうかもしれない。だからこそ、それからも細やかな気遣いが必要になる。 ミチルの祖母は、よくやってくれていた。祖母の存在がミチルにとって確かなものになっているに違いなかった。
『……拓磨さん、ハルカは?』
不意に投げ掛けられた言葉に、思わず絶句してしまう。
『今も実家に帰ってるの?』
「……ああ、そうなんだ。事情があって、しばらくこっちに来られないらしい」
『そうなんだ』
溜息混じりの残念そうな声に、こちらもつい気分が落ちてしまう。 適当な出まかせを信じ切っているミチルのことを思うと胸が痛んだ。まだ先になるだろうけど、この件が落ち着いたらミチルには本当のことを話してみようか。 ハルカとは、あの四日間だけの関係だったんだと。きっと驚くに違いない。
『じゃあ、伝えておいて。次にハルカに会えるの、僕がすごく楽しみにしてるって』
「わかった」
そう返事をしながら、俺はハルカのことを想い出していた。 初恋の人と同じ顔と匂いを持つ、きれいな人。あの四日間、ハルカは確かに俺の恋人だった。 ミチル。俺も信じてるんだ。 まだずっと先のことかもしれないけれど、いつか違う形でハルカに出逢える日が来ることを。
終電を降りて駅から出ようとすれば、空からぽつぽつと雨が降り出したところだった。 細やかな霧雨が身体をしっとりと濡らす。次第に雨足が強まり、アスファルトの染みが広がっていく。 カバンから折り畳み傘を出して広げた俺は、雨を避けるように早足で自宅へと向かった。 仕事に忙殺されながらも、日々の生活は充実していた。ミチルの件が落ち着いたら、遺族支援班の仕事を途中で放り出してしまったことをあの遺族に謝罪するつもりだ。今はまだ行けそうにないが、自分のために必ずケジメをつけたかった。 日常の歯車は元に戻ったはずなのに、俺の心にはぽっかりと大きな穴が空いている。 煌々と光の灯るコンビニエンスストアを横切りながら、ここでの記憶を想い出してしまう。
『あなたのところに……連れて帰って』
こんな雨の夜に、ここで雨宿りをしていたハルカ。 いないことはわかっている。それでもここを通る度、無意識にあるはずのない姿を探してしまう。 深い溜息をつきながら、俺は美しく儚い幻を断ち切るようにそこから立ち去った。
マンションの玄関に入って、闇の中で灯りをつける。 この瞬間、いつも何とも言えない淋しさを伴う。待つ人のいない家は、こんなにも寒々しい。
『天国に近いところが好きなんだ』
初めてここへ来た夜、ハルカはそんなことを言っていた。 あの愛おしい人を、塔のてっぺんに閉じ込められるものなら閉じ込めたいと思った。 俺は間違ってたね、ハルカ。 お前はもっと自由になるべき人だ。誰にも縛られることなく、歓びを享受し、笑顔で日々を送りながらささやかな幸せを感じて生きていく。ハルカがそうすることが、俺の願いでもあるんだ。 脱衣所で手早く服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びて浴室から出る。寝る準備を整えたところで携帯電話の着信音が鳴り響くのが聞こえてきた。 午前一時半。こんな時間に、何の電話だ。 署からの呼出しかもしれない。慌ててリビングのローテーブルに置いていたそれを手に取ってディスプレイを確認した俺は、思わず息をつく。 ああ、そういえば連絡しようと思っていたんだ。
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